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玄 胎
……たじろいでいる暇はなかった。
タケルは数歩退くと、天叢雲剣を床と平行に持ち直した。
目の前の……神上使が取り出したおのれの眼球を、タケルの目の高さでぎゅいと突き出した。
眼球……はそれ自体が個としての生命を持っているようである。
黒目が右へ左へ動いている。
タケルは呪を唱え続けていた。
が、効かない、届かない、祓えない……。
そのとき、タケルの耳もとで囁き声がした。
〈惑わされるでない……〉
……華佗の声である。
幽体化した華佗……いや正確には、玄胎というのであるが、その名称はともかくとして、複数体造り出すことができ、それぞれに本体、ここでは華佗本人の意識を胎らせることができるのだった。
ということは、このタケルがいる空間には、数体の華佗が玄胎として存在していた……といえるであろうか。
ちなみに……チベット密教では、この玄胎のことを、意成身、という。
〈……よく聴け、タケルよ。そなたの目の前の男は、存在してはいないのじゃ……突き出されたその目玉こそが、やつの本体じゃ〉
華佗の教えに、タケルの緊張がほぐれた。
「いやぁっっぁ」
天叢雲剣が、青白い光帯を放った。いや、人の目には到底その色は捉えなかったであろう。首魁の眼球だけが、光の帯を捉えていたはずである。
その瞬間、眼球が燃え上がった。
……いや、炎に包まれる前に眼球は上昇している。タケルの目にはとまらない速さであった。
〈捨て置くがよい……〉
華佗の玄胎が言う。
〈奉孝に加勢すべし〉
ん……? と刹那の間に跳躍の姿態に変じたタケルは、剣先を床につけた。すると天叢雲剣が上へ上へ伸びていく。
つられて自然とタケルは上へ持ち上げられた。
途中で刃の腹の部分を蹴った。
「あ」
タケルは見た。
周りに蝶が……いや蝶と見紛う布切れが舞ってるのを……。
(……たぶん奉孝が鉄扇を開いているんだ……)
そうとしか思われない。
とすれば、奉孝はさらに上方に居るはずである。
「奉孝ぉっ!」
タケルが叫んだ。
「左へ」
奉孝の声だ。
「無事かぁ」と、タケルは再び吼えた。
それだけまだ余裕がある証である。
「焦るな! おれからは見えている」
奉孝の声は幻聴ではない。
「どうすればいいんだ?」
そんなことをつい口に出していたタケルの目が、ひときわ大きい蝶もどきをとらえた。
それが左へ舞うのを追いながら、タケルは、急に華佗の声が聴こえなくなったことに一抹の不安を覚えた。
なんども胸の内で華佗の名を呼び続けていたのだが、華佗の玄胎は答えない、応じない。
「あついっ」
剣が熱を帯びている。
ひとが息を吐くように天叢雲剣が白い靄を放ち出した。
タケルにしても、いまだかつて経験したことのない現象であった。
華佗は応えない。
奉孝の声も途絶えてしまった……。
何か別のものが突然参入してきたかのように、タケルが居たはずの空間とは別の位相へ転じたようである……。
ふいにタケルの上昇が止まり、足は地に着いていた。
そこは……塔の内ではなかった。
そして……ある意味で臨淄の街でもなかった。
……色どりのない世界であった。視界一面が、黒と白二色のみである。
(ん……? ここは……)
タケルは自分が宙に浮いたままのか、それとも大地にしっかと足の裏が着いているのかすら判別できないほど、揺れている。
躰だけではない、意識そのものが、ぐるぐると揺曳し……そのまま人知の及ばない速度で消えていくのかとすらおもえるようなかのような感覚。それでいてゆったりとして永遠にその緩慢なる揺れの反復というものが続くかともおもえるかのような……そういう場のなかに、タケルは、いま、居る。
(もう……誰にも、会えないかも知れない)
別の思念が……そんなことを考えさせてもいた。
奉孝のことか、華陀を指すのか、それとも張飛のことなのか……すら、タケルにとっては判別がし難い。
一瞬のうちに、タケルはそれだけのことを思念している……。
(や……ここは……)
その繰り返しが、刹那の間に何度も何度も続いている……。
あ
あ
あ
あああ
あ
ああああ
あ
タケルはようやく、いま、居るこの場がどこかわかった。
すなわち……
奉孝の持つあの鉄大扇に描かれた墨画の……中にタケルは閉じ込められたのである……。
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