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神鳥のお告げ
……鳥を見ている。
色や大きさは分からない。周りの気の中に溶けているようでもあり、急に浮かび上がって飛び出してきたようである。
奉孝にはそのように見えた。
その瞬間、霧が天から舞い堕ちてきた。最初は霰かとおもったほど、その微粒子が重さを持っているように奉孝は感じた。
瞬く間に、濃霧があたりに充ちた。
(ひゃあ、これだから……)
奉孝は胸の内でぼやいた。
(……古老の言うとおり、早発ちしておけばよかった……)
濃霧のあとには、すぐにも雨が降ってきそうである。
傘を忘れた。
この時代、まだ開閉式の傘はない。
あくまでも、傘というものは、特別な儀式や祓浄のための呪具なのである。
奉孝……は、字である。
名は郭嘉。
郭が姓である。
先祖かどうかは定かではないが、すでにこの時代の有名人に
〈郭隗〉
がいる。この物語の時代より五百年近く前の人で、
『まず隗より始めよ』
という格言のなかにその名を留めている。
先従隗始。この四文字が、『まず隗より始めよ』であって、『戦国策』には、先王の時代から斉国に負け続けている燕国の昭王は、敵に勝つための人材不足に直面し、広く賢者を集め師として学びたいとおもい、どうすればいいのかと、郭隗にたずねた、とある。
すると、隗はこんなたとえ話で答えた。
『……昔々のことです。ある君主が大金を出して、使用人に駿馬を買いに行かせたところ、なんとその使用人は死んだ馬の骨を五百金で買って帰ってきたそうです。それを知った君主が怒り出すと、その使用人は平然として、君主に答えました。「死んだ馬の骨でさえこんな大金を出すなら、このことを伝え聴いた人々は、生きている馬ならもっと高く買うに違いないと思うはずです。ですから、ご心配にはおよびません。駿馬はすぐにも手に入ることでありましょう」と。するとどうでしょう、一年もたたないうちに三頭の駿馬が手に入ったのです。……今、王様が、賢者を招きたいと思われるのなら、まずはこのわたくし、隗からお始めください。すると、あの愚鈍の郭隗でさえ召し抱えられたのだから……と、わたくしよりはるかに優れた者が千里の道も遠しとせず、王様のもとにやってくるでありましょうぞ』
昭王はこの郭隗のために大きな屋敷を建て、師としてその教えに耳を傾けるようになり、他国から競うようにして多様な人材が集まった……という故事である。
このとき駆けつけた人材の一人が、楽毅で、斉国を滅亡寸前にまで追い詰めた軍事の天才として知られる。
ちなみに、王や貴人になにごとかを提言するときには、このような『たとえ話』を持ち出すのは、この大陸でのある種の伝統文化のようなものになっていた。
貴人に対して直接的に提言するのは、すこぶる非礼にあたると考えられていて、あくまでも、たとえ話で、それとなく示唆するのである。むろん、本物語の主人公の一人、郭嘉(奉孝)がこの『隗より始めよ』の郭隗の子孫という確証も傍証もない。けれどそういう血脈が続いていたとしても一向に不思議ではあるまい。
……事実、奉孝には、産まれたときにすでに一つの逸話を生じさせていた。
母が“ 神鳥 ”を見た、と言い張るのである。
かなりの難産であった。
あまりの苦痛に息絶え絶えになりかけたまさにその時、薄紅色をした雀に似たその鳥のような生き物が、喚き叫んでいた母の腹にちょこんと止まったそうである。
……すると、その鳥のごとき生き物は、瞼から血の涙を流しつつ、目をこちらに向けた、のだ。
『……血が嘴に流れたかとおもうと、肌着の襟元を嘴でつついて、なんと、文字を書いたのですよ』
と、のちに母は何度も何度も奉孝に語りきかせた。
このとき、その鳥に似た謎の生き物が書いた文字は、
『選ばれし者、偽男児として育てるべし』
と、読めた。
だから、そもそも奉孝は女人なのだが、男児として育てられることになった。
……この秘密は、両親とほんのごく一部の近親者しか知らない。
ちなみに、古来、鳥というものは、ある種の兆を運んでくる生き物なのであった。
その土地々々に、同じような、あるいは多分に脚色された伝承として残っている場合が多く、ときには死を招く不吉な兆しとしてとらえる地域もあった。いずれにせよ、その鳥のごとき生き物は、なにかを報せるために、選ばれた者のものへと飛んでくるのである……。
この場合は、母親ではなく、彼女が産んだ女児……すなわち、奉孝(郭嘉)を選ばれし者と認定したのであったかもしれない。
そんなことを囁かれ続けてきた奉孝は、それ以来、なにかと空を睨んでは、鳥のような生き物を捜し続けてもきた。あるとき、旅の途上で宿代わりの祠跡で出会った古老はこ、う語っていたはずである。
『……ふうむ、そうじゃの、その鳥のごときものの名は……この地では、無為というのじゃよ。砦が落ちる前、あるいは火の災いに見舞われる前、たまに見かけることがあるそうな……』
それを聴いて奉孝はすかさずたずねたはずである。
年嵩の者に対し、その生涯を通じて培ってきたであろう深く厚い知見を敬う意味もあった。
『あのう、血の涙を流す鳥……のことをご存知でしょうか? その血をくちばしに溜め、文字を記す鳥のごときいきものを……?』
『はて……そのようなことがあり得るのか……』
『かりにあったとして、それは、吉兆でしょうか? それとも……』
『そうさな……あえて申さば、吉にも不吉にもなろうかの……かつて、老子様はこう申されたそうな。禍福はあざなえる縄のごとし、と。つまりじゃ、おのれが幸福の絶頂のとき、遠からず、その反動がやってくる。逆に、辛苦の極みにいても、必ずやいずれ福がもたらされる日が訪れる……ということだ。いうなれば、そのときどき、そのおりおりの局面だけでは、吉か凶かは判断できぬ、また、即断してはならぬ、ということじゃの』
『では……すべての疑問が氷解されるのは、おのれの生が終えるとき、ということでしょうか』
『おいおい、お若い方よ……その年齢で達観することを急ぐこともなかろうて、の、またかりにだ、嘴で文字を刻む鳥がおったとするならば、まさしく、それは神鳥のごときものであろうの』
……そんなことを古老は語っていたはずである。
いま。
まさに
霧雨の中で奉孝が見ている鳥は、ただの幻影なのか、それとも……。
まだ視界のなかに鳥は在った。
と、それは、竜巻のようにぐるぐると回転しだした……とおもうや否や、目の前に向かってきた。尖った鋭い嘴が、一瞬のうちに、剣の刃先に変わった。
避ける間もなく、その刃がおのれの顔を突き刺した瞬間……奉孝の魂魄は遊離した。
魂魄は、魂と魄から成る。
道家、儒家、医家によって、魂魄の定義は微妙に異なるが、ここでは精神を構成する気(魂)と肉体を構成する気(魄)として認識していれば充分であろう。要するに、いま、奉孝の魂気は肉体を離れた……のである。
(ど、どういうこと?)
奉孝は思念している。肉体から遊離してもなお、思念しているその流れを捉えている。
かつて遭遇することはなかった体験である。
(こ、これは……幻影なの……!?)
まだ思考が渾沌としているなかで、魂気は波のごとく揺らぎ続け、幾分やわらいだとき、奉孝は未踏の異国にいることを感得した。
(ここは、ど、どこだ……)
すると、魂気ははっきりと国の名をとらえた。
(ヤマト?……はて、そのような国があったか……)
魂気の視界……といっていいのかどうか不明なのだが、奉孝ははっきりと視た。
白衣の女人の前で肩肘をつき、拝命している若者の姿態を……。
女人はおそらくは巫女であろう。あるいは祭祀官のようなものであったろうか。
それぐらいはなんとなく奉孝にも察することができた。
『……はっ、命かけで行ってまいります』
若者の声が響いた。
横顔しかわからない。
髪はない。いや剃っているのか、もともと無いのか判じがたいが、額から頬にかけて赤い。朱丹(赤い染料)を塗り、入墨をしているようであった。
いや、どちらかといえば童顔である……まだ童子、少年といっていいかもしれない。
さらに不可思議なのは、視界のなかの人物たちが喋る言語は理解できようはずもないにもかかわらず、奉孝は瞬時に感得できていた……。
(タケル……? それは、この少年の名なのか?)
奉孝が理解したのは、どうやらタケルというのが少年の名であるらしいことと、少年が背負っている鞘のない剥き出しの剣の玄妙なる輝きであった。
平剣でも細尖剣でもない。
奉孝が見知っている斧でもなかった。
(ま、まさか……断竜斧?)
古書考見学者の伯父が幼い頃の奉孝におしえてくれたことがある。古の天剣のことを……。
千古断竜斧……ともいった。
……覇者より上に位置する伝説の天帝だけが遣うことができる神具である。
刃を天に向け振りかざせば、たちまち雷鳴とどろき砂塵舞う、刃を地に向け呪せば、たちまち大地が裂け、その割れ目より炎が出る……というのである。
なにゆえ今、奉孝が
〈断竜斧〉
をおもったのか自分でもわからない。すくなくとも奉孝の魂気がそう告げた、のであったろう。
(ひゃあ)
その次の瞬間、ふたたび奉孝は視た。少年が背負った刃が光輝いたのを……。
そして、その剣から飛び出してきたのは、まさしく、鳥であった。いや、剣そのものが鳥になったのであったろうか。
(あ!)
奉孝は視た。
奉孝は知った……。
鳥が血の涙を流しつつ、向かって来たることを。
(や!)
と、思念が朦朧として、ふいに、雨の音をとらえていた。
魂気が遊離する前に佇んでいた小径である……。
朦朦然としてわが身に降り注ぐ雨のなか、奉孝の動悸は音を発して止まない。
(あの刃……神器というべき断竜斧が、ヤマトという未知の国のタケルという名の少年の手に存るというのか……?!)
そうつぶやきかけた瞬間、奉孝は股の間に流れ落ちる経血……の残相を思い浮かべていた。
初花(月経)である。
はじめての経血の流れを感じたまさにそのとき、突き上げる鈍く熱い痛みとともに、奉孝はおもった。
きっとあの鳥が、その血を運んできたにちがいあるまい……と。
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