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伝 言
目の前に在ったはずの巨塔が跡形もなく掻き消えたとき、奉孝の手には親指大の小枝のようなものがしっかと握られていた。
……タケルの剣である。
天叢雲剣、あるいは、断竜斧……名称はともかくも、なにも奉孝はその剣を奪ったのではない。
あのとき、いずかたともなく、奉孝めがけて飛んできたのである。
……そのとき、手首にはめた隕鉄輪が青白く輝いたのを奉孝の記憶にある。その刹那、奉孝は塔の外へ投げ出されたのだった。
飛んできた小枝のようなものは……縮んだ断竜斧にちがいない。説明はし難いが、奉孝はそう確信している。
(タケルが………)
と、奉孝は思っている。
(……送って寄こしたのだ……)
けれども、おそらくその神剣は奉孝には扱えまい。いまは、大切に預っておくほかはない。
耳を澄ませば、西のほうから人がすすり泣く声が響いてくる。
ちょうど塔があったあたりの裏方にあたる。そこをめがけて走り出した奉孝の視線が、女たちの姿をとらえた。互いに抱き合うようにして泣いている。さらわれた女たちの……救い出せなかった残りの十人だった。
いや、十一人いた。
「おいっ、無事であったか!」
奉孝が叫ぶと、躰をびくつかせていた女たちはやっと助けが来たのだと認識したようである。
互いの躰を支えながら立ち上がったとき、
「こらぁ、賊の残党よぉ」
と、怒声が響いた。
と、その声と同時に剣一閃した。咄嗟に奉孝は短剣を抜き受け止めた。
「おおっ、なんだ、少年かぁ」
その巨漢……が剣を握る力を一瞬緩めた。
「お、おまえ……」
と、急に弱々しい声になったその男……張飛は、目の前の少年のあまりにも煌めきを帯び容姿を視て、つい、二歩退いていた。その隙を突いて、奉孝の短剣が張飛の喉元へ突き出された……。
そのときである。
別の方角から走り来る人物が、
「待てぃ、待て、奉孝よ、奉孝」
と、叫んだ。
「あ、公台どの」
……公台は陳宮の字である。
勢いづいてしまった短剣を止めるには、自らが宙返りするほかはない……陳宮の声を耳にした刹那、奉孝はそうやって故意に狙いをはずした。
「ぎゃあ、痛ぇ、おおっぉぉ」
張飛がのけ反って、仰向けに横倒しになって転がった。少しばかり肌を切り裂いたようである。
「あ」
おもわず奉孝はばつの悪そうな表情になって、何も言わず大袈裟に転がり続ける巨漢を目で追った。
「奉孝、無事であったの、よかった、よかった……」
駆け寄ってきた陳宮は足元で転がりながら呻いている張飛には目もくれず、奉孝の肩に手にかけ、無事を寿ぐことだけに気を集中している。
「ぎゃあぁ、こっちは、ちっとも、無事じゃないぞぉ! 首をちょん切られるところじゃったぞぉ」
なおも張飛は叫び、恨みつらみを吐くのをやめない。
「あ、あいつは? おれの義弟は、どこにいる? どうしたぁ、おおほぉい、どこだぁ」
張飛の叫びがいつまでも奉孝の耳朶を揺らした。
ぼそり、と奉孝が言った。鉄扇を突き出した。
「タケルは……この大扇の中だ」
聴いた張飛も陳宮も意味が分からない。
「な、なにぃぉお? 扇がどうしたというのだ?」
やっと立ち上がった張飛が、斬られた首の皮を手で抑えながら、まだ叫びをやめない。
「どうやら、この大扇のなかへ……緊急避難した……ようだ」
奉孝はそう答えることしかできない。
「避難? だとぉ? おまえ、なにを寝ぼけたことをほざいているんだぁ」
突っかかりながらも張飛はまともに奉孝の顔を見ることはできないでいる。あまりにも凛として清々しくさえある奉孝の容貌には、どことなく近寄り難い美というものが宿っている。
張飛は初対面にして、すでに奉孝に首の皮膚を斬られただけでなく、こころの芯奥を衝かれたようであった……。
それにしても……と、奉孝は、目の前でぼそりと名乗った張飛という男に、ずっと違和感を持ち続けている……。
(タケルが張兄と呼んでいた奴だな……おれと数歳しか違わないだろうに、ああして付け髭なんかして、おのれを上に見せたがる……)
張飛の耳の鬢は見るからに豪傑ふうなのだが、一目で奉孝はそれが模造だと見抜いた。顎のあたりの薄っすらとした髭は地毛であろう。早く生やしたい伸ばしたいという張飛の強い願望を見て取った。それだけに、どうしてこんな中身のない奴と一緒にタケルは旅を続けてきたのか、それが奉孝には理解できないのだ。
「……扇の中に義弟が潜り込んだぁ? そんなこと、到底、信じられるもんかぁ!」
なおも張飛は疑義を呈するのを止めない。信じられない……のは、奉孝だって同じだ。
陳宮は何も言わない。
……それはおそらく、年の功というものであったろう。
ありえないことは、ありえない……というこの世の真実を、陳宮なりに理解している。
現象の本質を理解する必要はない。つまりは、ありえないことが起こったとしても、それはそれで一度腹の中に納める、受け入れる……ということであり、いっぱしの軍師なり兵法戦略家としてこれから名を為さんという強い思いがある人物ならば、いまの陳宮と同様に、何事をも受け入れる思念の深さ、思考の柔軟性というものを持たなければならないであろう。
突っかかる張飛をあしらうのにうんざりしながらも、奉孝は内心ホッとしていた。当初、張飛の態度から、どうやら自分に一目惚れしたような印象を持ったのだ。つまりは、女人であることを瞬時に見破った……のだと奉孝は警戒し、かつ、そのような張飛の能力に畏敬の念を抱きかけた。
ところがどうであろう。
どうやら、張飛は、女人の自分に対して劣情を堆積したのではなく、男を装う自分の外観に見惚れたのだと、奉孝は悟った。
こんなことは珍しいことではない。
……男装の奉孝はこれまでも道すがら出逢った男どもから、言い寄られたり、あからさまにほのめかされたり……してきた。あるいは、陳宮ですら、張飛が抱いた思いと同じ質のものを奉孝に注いでいたのだったかもしれず、それがあるゆえに、女人と見抜きながらも口には出さずに男児として扱ってくれたタケルに対して、さらなる興味が湧いてくるのをとどめることができないでいる……。
「……華佗様は、どちらにおられるのだ?」
あえて怒声に近い音を出しつつ奉孝は、二人に華佗の所在を訊いた。
タケルを鉄扇の中から出すには、神医の智慧に頼るしかない……。
「それが……行方がわからん。傷ついた者らの手当をおえられてから、どこに行かれたなら、お姿が……」
陳宮が答えた。
「・・・・・・・・!」
奉孝は唖然とするほかはない。
あの塔のなかで、奉孝は誰か第三者の存在を身近に感じた。姿は見えなかったが、こちらの闘気が失せないように、ありとあらゆる助力をしてくれていたはずである。むろんその謎の第三者が華佗だったとは断定できないまでも、奉孝には、なぜか会ったことのないこの神医には敬服以上の感情を抱いていた。
(もしかすれば……華佗様は分身の術のようなものを駆使して、力を使い果たされたのやも……)
そんな想像を奉孝はしている。
かりにそうであるならば、タケルを鉄扇から外へ出す方法は、容易には見つかろうはずもない。
「やい、考え込んでばかりおらずに、早くなんとかしろ……タケルを、早く、元に戻せぇ」
すぐ傍らで張飛がまくし立てる。
言葉は荒いものの、語気はそれほど強くはない。奉孝の顔を見ずに、視線を誰も居ないほうへ向けているからだ。
(まこと、扱いにくい奴だなあ……根は善良そうだが……)
と、奉孝はおもった。とはいえ先行きの不安がより増してくる一方だった。
「おい、ご神医がわれらに伝言を残されたそうだぞ」
陳宮が言った。
かれの回りに数人の若者が集まってきて、なにやら陳宮に伝えたようである。陳宮に急かされた若者が、張飛と奉孝に向かって喋り始めた。
「……ご神医様は、禹宿にて待つ……と伝えてくれ……さように申されまして、そしてこの剣を二振りお預かりいたしました。大きいほうを張様へ、小さいほうを奉孝様へ……と。あと、丸薬や塗り薬などをまとめた薬箱もお渡ししろ……と申されておられました」
見ると、長く太い剣は、槍といっていいほどの長さで、切っ先は六角形状になっていて、先は二又。おそらくは敵の剣をからめ取る工夫の産物であったろう。横からみれば、あたかも双頭の蛇が牙を天に向けているようにもみえる。
「ひょおぉぉ、仙医どのは、やっぱり話がわかるお方だぁ」
喜び勇んだ張飛はそれをいきなり手にとって、
「おお、重い……ずしりとくるぜ……よし、双蛇鉞と名付けるぞ!」
と、無邪気な幼児のように破顔してみせた。
もう一つの小さいほうの剣を渡された奉孝は、
「あ……!」
と、驚いた。
……その剣は……タケルが持っていたあの断竜斧と瓜二つとまでは言えないものの、形状も刃幅もよく似ていた。
持ち手の部分(柄という)は、やや細身で、全体的に一回りほど小振りではあるものの、短剣ではなく、あきらかに長刀の部類である。
いまタケルの神剣は、親指大になったまま、いま奉孝の懐中に納められている。
(ま、まさか……断竜斧には二種あるのだろうか……だとすれば、これは……)
と、奉孝は想像の翼を押し広げた。
(……これは……女剣なのか……! 会ったことのない華佗様は、もしかすればおれが女人であることを見抜いておられたとでもいうのだろうか……)
奉孝はそんな想像をしてみた。かりに断竜斧に男剣、女剣の二種存在するとすれば、やや小振りの女剣を奉孝に渡すべし……と告げた華佗の真意はどこにあるのだろう……。
(なるほど……神医、医仙……と呼ばれるのは無理からぬ話だな)
だからこそ、一刻も早く華佗を捜し、タケル救出の方策を探らねばなるまい……。
奉孝には迷いはない。
華佗に手当をしてもらった老若男女の群れのなかに単身で分け入った。華佗の行方につながる雑談なりつぶやきなりを耳にしている者を探すことからはじめたのである。
少年とはいえ奉孝が自分たちを救出してくれた英雄だと知って、口々に礼を述べ、奉孝の周りを取り囲んだ。
「……禹宿とは、どこにある? ほかになにごとか聴き及んではいないか?」
奉孝が問う。張飛と似て、ぞんざいな言い方である。
禹……とは、上古の伝説の帝王の名である。それぐらいの智識は奉孝にもある。けれど、〈宿〉とは、やどることであり、また、〈星〉自体を指すこともある。
だから、難解であった。
やや哲学的ですらある。
伝言するならするで、もっと分かりやすく告げてほしいものだと奉孝は、しだいに腹が立ってくる。
「そういえば、済南国のことをつぶやいておられた……」
老婆がそんなことを思い出したようである。その言葉がそれぞれの記憶の引き出しをつついたらしく、
「……城の中に、その禹が潜れていなさるとか」
「おお、そうだ……禹の銅人が……どうやらこうやらとおっしゃっておられたぞ」
「いやいや、銅人ではない、宿という名の女人が……」
と、おもいおもいに囃し立てるように喋り出した……。
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