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壁と獄
瞼を閉じるたびに、少年の頭裡には、白く長い布きれが風になじんで揺れている光景が拡がっていった。それはあたかも延々と続く〈城壁〉が聳えているようにも見える。
工夫たちの姿までもが鮮明に浮かび上がってくるのだ。
斜陽の淡いきらめきが壁に撥ねて、腰を屈めて休むことなく作業を進める工夫たちが規律立った動きをしているのは、監視する兵士の数が多いためであろう。
……その城壁は、まだ工事の半ばである。
けれども完成したときの壮大な景観を頭に思い浮かべるだけで言外の威圧を覚えて、ぞっと体躯に戦慄が走った人々も少なくはなかったはずである。
……この光景は、強くその少年の頭裡に刻み込まれていて、いま、この地下牢のなかで瞼を閉じると貌のない無数の人々が蠢く姿だけが浮かび上がってくるのだった。
城壁……というのはいささか不正確すぎるかもしれなかった。
また、別の名があるのかどうかも実のところ少年にはわからない。
それはいつか見た光景の記憶の残滓のようなものであったろうか。
……いま、少年が見ている〈城壁〉の幻影というものは、いつ果てるともしれない広大無窮の砂漠のなかに蜃気楼のごとく揺らぎつつも凛として聳えているようでもあり、あるいは大海で荒れ狂う波濤に洗われる島の断崖にかろうじて足脚を保っているようでもあった。
まさしく無地の布が、ふわりふわりと踊り舞っているかのように、ゆるやかな曲線を描きながら少年の頭裡のなかの〈城壁〉はいまもなお聳え続けている。
……この牢獄、正確には地下牢のいたるところから、ため息とも咳混じりの息ともつかない生の名残りが洩れてくる。
人が発する断末魔の声が、ひっそりと、けれども重々しく牢内のそこかしこを覆い、淀み、したたかなまでに少年の芯奥にまで侵入してくるのだ。
少年は考えている。
あのとき、神剣で鋭く刺したはずのあの妖魔は、なぜ、消え去らなかったのか……と。
少年は考えている。
……はるばる大海を渡ってこの大陸にきて、会わなければならない相手、すなわち、陽巫女が予言した相手とは、いつ、どこで巡り会うことができるのか……少年、和邇タケルは、賊に捕縛されてなお、意気軒昂であった。
なんとなれば、陽巫女の予言というものは絶対不変のものであって、会うべき相手と出逢うまでは自分は死なない自信があるからだ。
腹にしのばせた神剣は親指ほどの大きさに変化させた。
念じればたちまち長さを変えるのである。
捕縛されたとき、神剣に縮小の呪を唱えておいた。この神剣が我が身を護ってくれるはずである……そうタケルは信じている。
「小僧! おまえ漢ではないな! 一体、どこから来たんだぁ?」
同房といっていいのか、同じ牢に放り込まれていた十余人のうち、巨大な男がのっそりにじり寄ってきた。膝をついたままである。
顔に無数の疵がある。
もっともこの時代に顔に刀傷や痘瘡のあとがないほうが珍しい。無傷の人間は、宮廷から出たことのない貴人か宦官ぐらいしかいないはずである。
……その巨漢は、すこぶる乱暴な物言いをする。
というべきか、丸いやや出目気味の瞳、左右にエラが張った顎には薄っすらと剃らない産毛が心もとなくもざわめいている。齢を重ねれば、おそらくそれは剛毛の髭となって、いかにも戦士面にみえるだろうが、どうやらいまはまだ若い。
なにより不可思議なのは、この異国の地での言葉がタケルには瞬時に理解でき、口から発することができるのだ。おそらくは陽巫女から与えられた異能であろうとタケルは感謝してもいた。
同房の一人が、そのエラが張った巨漢を、
「これ、張よ、ちょうよ」
と、呼び止めている。
顔面に不思議な紋様の入墨がある異国人のタケルには近づくな、といった制止であったろうか。
この大男は、じつは益徳という字を持つが、誰もそれを口にはしない。
なんとなれば、〈徳〉などとは無縁のならず者であったからである。
いま、十八か、十九歳といったところであったろう。
牢獄は何房にも分かれていて、どういう基準で分類されていたのかは誰にも分からない。内がそれほど暗くはなかったのは、囚人の幾人かが魚の鱗油に垂らした組紐に火を点していたからで、おそらく漁師かそれに類する一団も多く捕らえられていたのであったろう。
巨漢はいったん喋り出したら相手が辟易するまで止めない粘質型であったらしく、一向に返辞をしないタケルにからむのを止めない。
「おい、こら、口がないのか? それともこのオレ様がおそろしいか?」
話しかけても返答しない相手や自分よりほんの少しでも格下と映る者には、いたってこの巨漢はぞんざいな物言いになるらしかった?。
「いいえ」
はっきりとタケルは否定した。
「なんだ、おまえ、言葉がわかるのか……ならば、申せ、どこから来た……」
「大海を渡って参りました」
「海とな? はて、オレ様は、いまだ海というものをこの目にしたことがない……なんというどこの海だ?」
「それは……知らない」
「なにっ! オレ様をからかっているのか!」
「いえ、そんなことは決して……それより教えてください……ここはどこなのでしょう?」
「は? な、なにっ?」
「……濃霧の中、道に迷っていると、白馬に乗った妖魔と遭遇したんです。闘っていたところ急に目眩におそわれ……気がつけば、ここにいたんです」
「お、、おまえ、いま、妖魔とほざいたのか? 寝惚けているのか?!」
「いえ、はっきりと見ました。向こうは、会ったこともないのに、こちらの名を知っておりました」
「や! もしやおまえは、幻の辰国人なのか?」
「は……?」
どうにもこうにも話がまったく噛み合わない。タケルには相手が何を言っているのか判らず、返答に窮していると、突然、
「おまえさん、あるいは……東海の……扶桑国から来たのかの?」
と、横合いから口を入れた翁がいた。
言いながら立ち上がって巨漢の隣まで来て腰をおろした。
「なんだ? うす汚い爺ぃめがっ!」
いきなり巨漢が怒鳴ると、周りにざわめきが立ち沸いた。
「こ、これ、張よ……ご神医様に対し奉り御無礼いたすでないぞ!」
かなり年長の者であったろう、きつく巨漢を窘める叱声が上がった。
「な、なにっ? ご、ご神医とな!」
いきなり巨漢は両膝を折って、がばっとその翁の前で平伏した。
「……失礼ながら、ご神医と呼ばれるは、華陀様でござりましょうか」
すると翁はぼそりと答えた。
「……俗名は捨てた……なんとでも呼ぶがいい」
「で、ではやはり……華陀様でございましたか。先年、伝染病のために、オレの村が滅びかけたことがありました……通りがかった華陀様が煎じた薬玉のおかげをもちまして、罹患したこのおれのいのちも救われた、と聴き及んでおりました……」
「ほう、さようなこともあったかの」
「はい、華陀様ならば、オレにとっても命の恩人……オレは張、名は飛と申します」
巨漢……張飛は、平伏したまた答えた。
「そんなに畏まることはあるまいぞ……それより、この鯨面の若者のことよ……」
華陀は張飛よりもむしろタケルに興をおぼえたようである。
鯨面……とは、入墨のことである。
体にも入れ墨があるときには、〈鯨面文身〉という四字成語として使われる。
「そなた、名は?」
華陀翁が問うた。
「和邇タケル……」
と、タケルは名乗った。
「いずこから参ったのじゃな」
「ヤマト……」
「はてさて、露ぞ聴いたことはない……先ほどもたずねたが、そのヤマトと申したは、扶桑国のことではないのかの?」
「い、いえ、それは……まことに存じませぬ」
嘘ではない。タケルは本当になにも知らないのだ。
……東方に扶桑樹あり、その樹の根元から太陽が昇る……という太古からの伝説がこの大陸にはあった。
つまり、その扶桑樹が生えている国が扶桑国なのである。(後年、「扶桑国」というのは日本の別称、雅称ともなっていくのだが、ここではこれ以上触れないでおく)
ともあれ、扶桑樹と蓬来山というのは、のちのちまで神仙思想、あるいは不死長寿の仙人の棲み処との関わりが強く、かの秦の始皇帝が不老不死の薬を探すようにと村々に布告した〈木簡〉が発見されたのは、2002年のこと。湖南省(Hunan)の井戸の底から大量に発見されたが、解読されたのは2017年のことで、どうやらその布告は、辺境の地域や僻村にも通達されていたようである。
なお、始皇帝に命じられた徐福らが不老不死の妙薬を求めて東海の果てにある島をめざしたのは、大陸からみて東方にあたる日本列島こそが、
〈扶桑樹の生える国 = 太陽が昇る根元の国〉
と、認識されていた蓋然性が極めて高い……とまで書いておいてさしつかえあるまい。
……話を戻そう。
華陀がなにゆえ〈扶桑国〉にこだわっているのか、タケルは不審をぬぐいきれなかった。また、神医の意味も掴めず、当然、先刻張飛が洩らした〈辰国〉のこともわからない。
ほかにも聴きたいことが山ほどあって、タケルが頭のなかで整理していたとき、張飛が突然、大声を張り上げた。
「煙だ! 炎があがっておるぞぉっ……!」
焼け焦げる臭いとともに火焔が、生き物のごとく地を這い伝ってくるのを、たしかにタケルは視た……。
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