城壁と牢獄

1/1
35人が本棚に入れています
本棚に追加
/34ページ

城壁と牢獄

 (まぶた)を閉じるたびに、少年の頭裡には、白く長い布きれが風になじんで揺れている光景が拡がる。それはあたかも延々と続く〈城壁〉が(そび)えているようにも見える。  工夫(こうふ)たちの姿までもが鮮明に浮かび上がってくるのだ。 斜陽の淡いきらめきが壁に()ねて、腰を屈めて休むことなく作業を進める工夫たちの規律立った動きをしているのは、監視する兵士の数が多いためであろう。  ……その城壁は、まだ工事の半ばである。  けれども完成したときの壮大な景観を頭に思い浮かべるだけで言外の威圧を覚えて、ぞっと体躯(からだ)に戦慄が走った人々も少なくはなかったはずである。  ……この光景は、強くその少年の頭裡に刻み込まれていて、いま、こののなかで瞼を閉じると(かお)のない無数の人々が(うごめ)く姿だけが浮かび上がってくるのだった。  城壁……というのはいささか不正確すぎるかもしれなかった。  また、別の名があるのかどうかも実のところ少年にはわからない。  それはいつか見た光景の記憶の残滓(ざんし)のようなものであったろうか。 ……いま、少年が見ている〈城壁〉の幻影というものは、いつ果てるともしれない広大無窮の砂漠のなかに蜃気楼のごとく揺らぎつつも(りん)として(そび)えているようでもあり、あるいは大海で荒れ狂う波濤(はとう)に洗われる島の断崖にかろうじて足脚を保っているようでもあった。 まさしく無地の布が、ふわりふわりと踊り舞っているかのように、ゆるやかな曲線を描きながら少年の頭裡のなかの〈城壁〉はいまもなお(そび)え続けている。 ……この牢獄、正確には地下牢のいたるところから、ため息とも咳混じりの息ともつかない生の名残りが洩れてくる。  人が発する断末魔の声が、ひっそりと、けれども重々しく牢内のそこかしこを覆い、淀み、したたかなまでに少年の芯奥(しんおう)にまで侵入してくるのだ。 少年は考えている。  、神剣で鋭く刺したはずのあの妖魔は、なぜ、消え去らなかったのか……と。  少年は考えている。  ……はるばる大海を渡ってこの大陸にきて、会わなければならない相手、すなわち、陽巫女(ヒミコ)が予言した相手とは、いつ、どこで巡り会うことができるのか……少年、和邇(わにの)タケルは、賊に捕縛されてなお、意気軒昂(いきけんこう)であった。  なんとなれば、陽巫女(ヒミコ)の予言というものは絶対不変のものであって、会うべき相手と出逢うまでは自分は死なない自信があるからだ。  腹にしのばせた神剣は親指ほどの大きさに変化させた。  念じればたちまち長さを変えるのである。  捕縛(ほばく)されたとき、神剣に縮小の(じゅ)を唱えておいた。この神剣が我が身を護ってくれるはずである……そうタケルは信じている。 「小僧! おまえ(ハン)ではないな! 一体、どこから来たんだぁ?」  同房(どうぼう)といっていいのか、同じ牢に放り込まれていた十余人のうち、巨大な男がのっそりにじり寄ってきた。膝をついたままである。  顔に無数の(きず)がある。  もっともこの時代に顔に刀傷や痘瘡のあとがないほうが珍しい。無傷の人間は、宮廷から出たことのない貴人か宦官(かんがん)ぐらいしかいないはずである。  ……その巨漢は、すこぶる乱暴な物言いをする。  というべきか、丸いやや出目(でめ)気味の瞳、左右にエラが張った顎には薄っすらと剃らない産毛が心もとなくもざわめいている。齢を重ねれば、おそらくそれは剛毛の髭となって、いかにも戦士(づら)にみえるだろうが、どうやらいまはまだ若い。  そうタケルは察していた。  同房の一人が、 「(ちょう)よ、ちょうよ」 と、呼び止めている。  顔面に不思議な紋様の入墨があるのタケルには近づくな、といった制止であったろう。  この大男は、益徳(えきとく)という(あざな)を持つが、誰もそれを口にはしない。  なんとなれば、〈徳〉などとは無縁のならず者であったからである。  いま、十八か、十九歳といったところであったろう。  まだ、劉備玄徳(りゅうびげんとく)と出逢う前の張飛(ちょうひ)であった……。
/34ページ

最初のコメントを投稿しよう!