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扶桑と神医
牢獄は何房にも分かれていて、どういう基準で分類されていたのかは誰にも分からない。内がそれほど暗くはなかったのは、囚人の幾人かが魚の鱗油に垂らした組紐に火を点していたからで、おそらく漁師かそれに類する一団も多く捕らえられていたのであったろう。
張飛はいったん喋り出したら相手が辟易するまで止めない粘質型であったらしい。
「おい、こら、口がないのか? それともこのオレ様がおそろしいのか?」
話しかけても返答しない相手や自分よりほんの少しでも格下と映る者には、いたって張飛はぞんざいな物言いになる。
「いいえ」
はっきりとタケルは否定した。
「なんだ、おまえ、言葉がわかるのか……ならば、申せ、どこから来た……」
「大海を渡って参りました」
「大海とな? はて、オレ様はいまだ海というものをこの目にしたことがない……なんというどこの海だ?」
「それは……存じませぬ」
「なにっ! おれをからかっているのか!」
「いえ、そんなことは決して……それより教えてください……ここはどこでありましょう?」
「な、なにっ?」
「……濃霧の中、道に迷っていると、白馬に乗った妖魔と遭遇し……闘っていたところ急に目眩におそわれ……気がつけば、ここにいたんです」
「な、なにぃ? おまえ、いま、妖魔とほざいたのか?」
「はい……向こうは、会ったこともないのに、こちらの名を知っておりました」
「や! もしやおまえは、幻の辰国人なのか?」
「は……?」
どうにもこうにも話がまったく噛み合わない。張飛が何を言っているのか判らず、タケルが返答に窮していると、突然、
「おまえさん、あるいは……東海の……扶桑国から来たのかの?」
と、横合いから口を入れた翁がいた。
言いながら立ち上がって張飛の隣まで来て腰をおろした。
「なんだ? うす汚い爺ぃめがっ!」
いきなり張飛が怒鳴ると、周りにざわめきが立ち沸いた。
「こ、これ、張よ……ご神医様に対し奉り御無礼いたすでないぞ!」
かなり年長の者であったろう、きつく張飛を窘める叱声が上がった。
「な、なにっ? ご、ご神医とな!」
いきなり張飛は両膝を折って、がばっとその翁の前で平伏した。
「……失礼ながら、ご神医と呼ばれるは、華陀様でござりましょうか」
すると翁はぼそりと答えた。
「……俗名は捨てた……なんとでも呼ぶがいい」
「で、ではやはり……華陀様でございましたか。先年、伝染病のために、オレの村が滅びかけたことがありました……通りがかった華陀様が煎じた薬玉のおかげをもちまして、罹患したこのおれのいのちも救われた、と聴き及んでおりました……」
「ほう、さようなこともあったかの……それより、この鯨面の若者のことよ……」
華陀は張飛よりもむしろタケルに興をおぼえたようである。
鯨面……とは、入墨のことである。
体にも入れ墨があるときには、〈鯨面文身〉という四字成語として使われる。
「そなた、名は?」
華陀翁が問うた。
「和邇タケル……」
と、タケルは名乗った。
「いずこから参ったのじゃな」
「ヤマト……」
「はてさて、露ぞ聴いたことはない……先ほどもたずねたが、そのヤマトと申したは、扶桑国のことではないのかの?」
「い、いえ、それは……まことに存じませぬ」
嘘ではない。タケルは本当になにも知らないのだ。
……東方に扶桑樹あり、その樹の根元から太陽が昇る……という太古からの伝説がこの大陸にあった。
つまり、その扶桑樹が生えている国が扶桑国なのである。(後年、「扶桑国」というのは日本の別称、雅称ともなっていくのだが、ここではこれ以上触れないでおく)
ともあれ、扶桑樹と蓬来山というのは、のちのちまで神仙思想、あるいは不死長寿の仙人の棲み処との関わりが強く、かの秦の始皇帝が不老不死の薬を探すようにと村々に布告した〈木簡〉が発見されたのは、2002年のこと。湖南省(Hunan)の井戸の底から大量に発見されたが、解読されたのは2017年のことで、どうやらその布告は、辺境の地域や僻村にも通達されていたようである。
なお、始皇帝に命じられた徐福らが不老不死の妙薬を求めて東海の果てにある島をめざしたのは、大陸からみて東方にあたる日本列島こそが、
〈扶桑樹の生える国 = 太陽が昇る根元の国〉
と、認識されていた蓋然性が極めて高い……とまで書いておいてさしつかえあるまい。
……話を戻そう。
華陀がなにゆえ〈扶桑国〉にこだわっているのか、タケルは不審をぬぐいきれなかった。また、神医の意味も掴めず、当然、先刻張飛が洩らした〈辰国〉のこともわからない。
ほかにも聴きたいことが山ほどあって、タケルが頭のなかで整理していたとき、張飛が突然、大声を張り上げた。
「煙だ! 炎があがっておるぞぉっ……!」
焼け焦げる臭いとともに火焔が、生き物のごとく地を這い伝ってくるのを、たしかにタケルは視た……。
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