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崩壊の卵
「じゃあ、行ってくるよ」
家の中に小さく声を掛ける。まだ寝室で眠っているであろう妻を起こさないように気を遣う。もうすぐ、子供が産まれる大切な時期だ。できるかぎり、無理はさせたくないと思っている。
玄関を潜り抜けるとまだ六時前だというのに、すでに朝日が世界を照らしていた。夏が近いなと思う。マンションの階段を降りる。エレベーターが壊れてからどれぐらいたっているだろう。もう、五階から階段で降りることにすっかり慣れてしまった。
駐車場のある出口から外に出て、ごみ集積所の前に通ると女子高生が捨てられていた。段ボールに入ってじっとこちらを見つめている。
段ボールには「ひろってください」とたどたどしい文字で書かれていた。
誰だ。こんなところに捨てたのは。きっと世話に困ったあげく捨ててしまったのだろう。無責任なものだ。そのまま、前を通り過ぎようとするがじっと見つめてくる視線に負けて引き寄せられるように近づいてしまう。目の前に立つとじっとこちらを見つめてくる。「ひろってください」の文字に目が引きつけられる。
「ごめんな。拾ってやりたいところなんだけど……妻、ヨナがアレルギーなんだ」
女子高生はじっと私を見つめた後、こちらに興味を失ったように視線をそらした。その態度に私は苦笑してその場を立ち去った。
駅に向かって歩く。道路の舗装はがたがたになっていて歩きにくい事仕方がない。
「あら、ご出勤?」
ご近所に住んでいる斎藤さんが声を掛けてきたので会釈であいさつする。
「今日もいい天気ねー」
「そうですね。朝なのにもう暑く感じるぐらいですよ」
「そうよね。私が若いころは水を撒くぐらいで涼しくなったものだけど、今ではそうもいかないから嫌よね」
頬に手を当てながら困ったように言う。斎藤さんはいつも自分はもう歳だ。歳だ。という。実際六十歳を超えているとは思うが見た目は全然元気そうだ。
「なかなか今の時代は厳しいですよね。斎藤さんも熱中症には気を付けてくださいね」
「ありがとう。気を付けるわ。あなたも気を付けてね」
「ええ。ありがとうございます」
斎藤さんに別れを告げて歩き始める。町中には、ほとんど人気がない。少し前まではちらほら人影を見かけたけれど最近はすっかり見かけることもなくなってしまった。駅に到着して改札を抜ける。駅のホームにはやはり誰の姿もない。
「今日はどっちに行こうかな」
ホームの看板には「荻窪」と「西荻窪」と書かれている。しばらく考えた後、西荻窪と書かれている方向に向かって線路上を歩き始める。歩きにくい事仕方がないが、ここを歩くのが一番安全なのだから仕方がない。
周囲を見回す。この辺りはあまり背の高い建物は少ないがそれでも高級そうな民家や雑多なビルが立ち並んでいる。建物の壁には多くのヒビが入っていてガラスはほとんど割れている。わずかに残ったガラスが日差しを反射してキラキラと輝いていた。
西荻窪に到着すると駅前にあるスーパーの中へと入っていく。店内には小柄な男がうろうろと徘徊しているのが見えた。その男はこちらに気が付くと手を振ってこっちに近づいてくる。
「キシダじゃないか」
「ケイゴか。この辺りまで来るなんて珍しいじゃないか」
「うーん。ちょっとな」
そう言いながら困ったように頭を掻く。
「……あっちはもうダメか」
私の言葉にケイゴは苦笑する。
「そうだな。吉祥寺のほうはもうほとんど何も残ってない。それにアイツらも現れる頻度が高くなってるからな」
「そうか……」
二人して重苦しい空気に沈黙する。その空気を振り払うようにケイゴが妙に明るい声を出して言う。
「もうすぐ子供が産まれるって言ってたっけ?」
「あ、ああ。たぶん」
「予定日は来月だっけか?」
「そうだな」
「嫁さんは大事にしてやれよ?」
「言われなくても分かってるよ」
「そうだよなー。ヨナさん美人だもんなー。良い人だし」
頭の後ろで両手を組んでケイゴがつぶやく。
「お前、そういうところだぞ。女の人に嫌われる理由。そんなんだから、カイリさんに愛想をつかされるんだ」
「それを言うなよ。カイリ帰ってきてくれー」
悲しそうに天を仰いで叫ぶ。ケイゴの肩を叩いて慰めた後、二人でスーパーの中を捜し歩く。
「お。保存食が残ってるぞ。ほら、栄養食のやつ。これ上手いんだよな」
倒れた棚を探っていたケイゴがオレンジ色の箱を手に持って見せてくる。そのうちの一つを放り投げてくるので慌てて受け取った。
「……いいのか?」
見つけたのはケイゴだから、これはケイゴの物のはずだ。
「いいよ。ヨナさん大事な時期だろ? 食べさせてやれよ」
「すまん。ありがとう」
私が頭を下げると照れくさそうに顔をそらすと手を振って誤魔化した。なんだかんだで良いヤツなのだ。
そこから先はほとんど収穫がなかった。このスーパーもあらかた誰かに調べつくされたのだろう。
「……これは」
倒れた冷蔵棚の奥に小さな扉が隠れているのを見つけた。まるでバリケードのように冷蔵棚が置かれていたので気が付かなかった。
「まだ誰も調べてないっぽいな」
隣にケイゴが並んで言う。私はうなずいて見せた。二人で倒れた冷蔵棚をどける。目の前に現れた扉を軽く押すと抵抗なく開いた。
慎重に中を覗き込みながら部屋の中に入る。真っ暗な室内に入ってしばらくすると暗闇に目が慣れてきたぼんやりと中の様子が見えた。
部屋の隅にうずだかく何かが山になっていた。
「ああ。ここに逃げ込んだんだな……」
ケイゴが淡々とした声でいう。山にゆっくりと近づいていく。そこにあったのは人間の死体の山だった。その表情は恐怖に歪んでいる。
「……すまないな」
ケイゴが死体の山に手を合わせる。死者を悼む行為だ。他の人たちはしない行為。でも、私はその行動は尊いと思う。私も死体――いや、遺体の山に両手を合わせた。そしてケイゴと二人で床に散らばっている体の一部を拾ってビニール袋に詰めていく。
持ち出せそうなものをすべて詰め込んだ後、私たちはスーパーの前で別れた。拾っている間はずっと私たちは無言だったが、別れ際ケイゴは「ヨナさんによろしくな」と言って手を振った。
「お前も元気でいろよ」と私は返す。もう、次も生きてあえるか分からないからだ。
また、線路を歩いて自宅に戻る。斎藤さんがマンションの周りをジョギングしていた。体力づくりらしい。元気だ。
マンションの階段を上り、玄関のカギを開ける。
「おかえりなさい」
廊下の奥のリビングからヨナの声がする。立ち上がって出迎えに来ようとするので手で制した。
「いいよ。大丈夫。今は動かないほうがいいんだろう?」
私の言葉にヨナは申し訳なさそうにしながらもリビングのクッションの上にまたうずくまる。
「今日の収穫」
私は栄養食の箱をヨナに手渡す。
「え? すごいじゃない。よくこんなの残ってたね」
「西荻窪のスーパーでケイゴが見つけたのを分けてくれた」
「凄い。ありがたいね。ケイゴさん良い人だよね。女癖さえ悪くなければなぁ」
ヨナが苦笑しながら言う。それに対しては同感だった。
「元気にしてた?」
「ああ。カイリさんと別れたこと以外は」
私の言葉にヨナはまた苦笑する。
「それよりも体調はどう?」
「うん。今日は悪くないよ。この子もよく動くから」
ヨナはクッションに覆いかぶさるようにうずくまったまま笑顔を浮かべる。
「あなたも見る?」
「いいのかい?」
「大事に触ってね」
そういうとヨナはゆっくりと立ち上がって自分のお腹の下にあった卵を私に見せる。
私はそっと卵に触れる。ヨナが温めていたのでほのかに暖かい。
「あ。今動いた」
卵の中でわずかに動いた気がした。
「お父さんに触ってもらえて嬉しかったのよ」
そうなのだろうか。そうだと嬉しい。しばらく二人で卵を優しくなで続けた。
夕食の支度は私がすることにした。準備が整って食卓に料理を並べるとヨナがテーブルにやってくる。
テレビをつけると東京の西の方で戦闘が頻発していると言っていた。
「結構近いね」
ヨナが不安そうにつぶやく。
「そうだね。ケイゴも吉祥寺にアイツらがよくあらわれるようになったと言ってた。この前は新宿で百人近くが殺されたらしい」
「……そう。人間って怖いね」
卵に視線を送ってつぶやく。
「そうだな」
私たちはこの崩壊した世界で必死に生きている。でも。きっと彼らも必死なのだろう。
最初に彼らを襲ったのは私たちのほうなのだから。
これは私たちと人間たちの生存競争なのだ。
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