最後の旅

3/31
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/31ページ
「交通事故」と自嘲できるのは、麻雀で巡目の浅い、解読材料が何もないリーチに振り込んだ時だけであって、それ以外の場合は、血を流し、傷を負い、平凡でゆるやかな日常を失うことになる。最悪の場合、軀を失くす。あの女は運命などではない。仕組まれた「交通事故」だ。現に俺は、魔女のひと睨みの呪術によって、羅針盤は狂い、帆は折れ、望まぬ逆張りに賽子は寒い目しか出ず、全てが裏目裏目に回り始め、やがて俺は暖かな港を追われた。然るべき才覚を持っていたことさえ忘れてしまったほど世界は変わってしまった。  鉈を振り回して暴れる屈強な暴漢にペーパーナイフで応戦したらどうなるか?  ふり絞った勇気は嘲りとともに簡単に握り潰され、明白が明白でなくなり、日常が非日常になり、自分はどうしてここにいるのかすらわからなくなり、自衛していたことさえ忘れて、躊躇なく頼りないペーパーナイフを手放し、鉈で一刀両断されてしまうことを望むようになる。理解してもらえないかもしれないが、それがヨーコの魔女たるゆえんである。  悪い奴ほどよく眠る。  まさにそうだ。  この糞女ときたら、俺のたった一度のささやかな拒絶が気に喰わず、こんな搾取の毎日の中での唯一の希望だったカリフォルニアのナパバレーのワイナリーでワインを作りながら二人で暮らそうという話を全くなかったことにして、明日から俺を横浜の寿のタコ部屋に放逐するというのに、なんとも思わない。何も感じないを通り越して、人の運命を弄び、闇に葬り去ることに快楽を感じているのではないだろうか。人の痛みを解さないドSな女だということはとっくの昔に思い知ってはいるが、俺が許せないのは、協力者のフリをしておきながら、その実、分捕れるものは非情に分捕り、美味しい部位は喰らい、美しき誤解は嗤い、用済みになったら、悪い未来を刃物のように喉元に突き付け、恐怖を煽り、恫喝し、人格を否定し、屑箱へポイだ。  たった一度のささやかな拒絶とは?  そこまでは明らかにできない。それはヨーコの闇を暴くと同時に、俺自身をも貶め、ヨーコの引力圏内で厭な暗雲の立ち込める永遠の冬のような闇に引きずり込まれることになるからだ。  諸刃の刃。  寝息がヤニ臭い。そのヤニがへばりついていて、アメリカ生活が長かったくせに歯が汚い。こんな唇に塞がれ、しかも、反応し、精まで放っていたのかと思うと情けなくなる。
/31ページ

最初のコメントを投稿しよう!