最後の旅

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 俺は別にヨーコと別れるのが厭なのではない。  あまりにも惨めで、あまりにも情けなくて、ほんの一寸だけでいいから、報われたいだけなのだ。幾杯ものウオトカではその役目は果たせない。だからと言って、最後にヨーコに優しくされたいわけでもない。心はとても鬱屈としている。  さよならと書いた手紙でもテーブルの上に置いて、「悪いのは君じゃないさ僕のほう」なんて女々しく、甲斐甲斐しい台詞を言えるほど殊勝な気持ちにはなれないし、あの歌だって本当は、しつこくて束縛のきついメンヘラーみたいな女から逃れる歌なんだろう。似たような境遇の俺には行間が面白いように理解できる。  静寂は続く。  まるで俺を嘲笑うかのように。 ――魔女を殺してしまえ。  何者かが俺の耳元で教唆する。  それが悪霊なのか、俺の心の声なのかは知らない。  抗いを理詰めと鋭い眼光に威圧され、屈服させられるくらいならば、そうしてしまうのもまた人生だろうし、コールドゲームを惜敗くらいにできるのかもしれない。ただ、やらなければやられるわけでもない。掃き溜めの寿で俺が腐らず、何かを掴み、形にすれば、また利用価値を見出して、ここに呼び戻してくれるのかもしれない。  甘いなぁ。  わかっている。  だから、そういうところをヨーコに付け込まれ、占術という刃物を喉元に当てられ、いいように利用されてきたんだろう。今までの不実と蹂躙を責めたてたところでヨーコに軽蔑の念を込めて同じことを言われるだろう。 「あんたが甘ちゃんだからよ」  それなのに、俺は道化師のように目は笑っていないのに、ヘラヘラと口角と声だけで笑いながら終焉を迎えようとしている。 「甘いなぁ」と思いながら。  ウオトカの酔いが頭の中を大きさがバラバラのガラスの破片で敷き詰め、不快にさせる。酔うためだけに飲む酒はまるで忘れたいがために抱く行きずりの女と同じだ。徒労しか残らない。いや。それでいい。忘れたい過去が残るくらいなら徒労が残ってくれるほうがいい。残ったところで数日の話だ。それも眠れば忘れられる類の徒労だ。  窓の外の鈴木町あたりの空が濃い闇から、藍色、そして薄紫色へと変わってゆくのを見ている。陽はもっと向こうの穴守稲荷の産業道路あたりの方角から昇ってくる。  眠らなければ耐えられまい。  過酷な明日にも、魔女の弁舌にも。  こめかみが痛む。  ヨーコが死んでいる。  いつもならすっかり萎えたそれを咥えられて、生暖かい快楽に引きずられるように目が覚めるのだが、俺を目覚めさせたのは執拗な着信音だった。鳴っているのはヨーコのスマホだ。ヨーコのアメリカのエージェントからだろう。エージェントと言っても怪しいものだ。多分、俺のような間抜けの弱みを握り、篭絡して、現地法人の雑務や訪米時の多岐にわたる世話を焼かせているのだろう。
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