最後の旅

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 しかし、その電話が来るのはいつも現地時間夕方の朝九時ごろだ。高血圧が悩みのヨーコがこんな時間まで寝ていることは今まで一度もなかったし、うっかり携帯を持たずに外出するような可愛らしさなんて持ち合わせていない。卑猥に起こしに来ないことよりも電話に出ないことのほうがおかしい。  寝不足と酔うためだけに利用されたウオトカの怨念のようなこめかみの痛みで視界は白内障のようにぼやけている。夢の続きのような不思議な感覚もある。昨夜あれだけ絶望と殺意を噛み締めたのと同じ部屋にいるという気がしない。なんというか、現実感が薄い。  やがて、舌打ちをしたように着信音が収まる。本当はヨーコの声など聴きたくもなかっただろうから、それは空耳か演技とわかる。 「ヨーコさん」  俺は、こめかみを押さえて起き上がり、雲の上を歩くようにフラフラしながらヨーコのベッドへ這った。  それは俺が望んだことなのかもしれないし、神々が神をも畏れぬ不遜な女に不敬罪を適用し、鉄槌を下したのかもしれない。  白いベッドに紅い薔薇が敷き詰められている。そこに白い羽毛が舞っている。  俺はそれを不覚にも美しいと思った。  百万本の薔薇はどこの大富豪の悪戯か?それとも女優に恋をした貧乏画家の一世一代の大博打か?  違う。  薔薇の陶酔するような芳しさはなく、噎せるような硝煙と錆びた鐵のような血の生臭い匂い。 「現実に血を流せ」と歌うミックジャガーが赤い舌を出す。俺はいつも「満足なんかできないぜ」と大人しい家畜のフリをして奴隷になりかける魂に茨のついた鞭を振るい続けてきた。そう言う俺が一番ロックでないことくらいわかっている。  しかし、これは俺ではない!  ヨーコと俺と銃が一本の線で繋がらないし、万が一、繋がったとしても俺に引き金を引く動機はあっても、引き金を引く根性などない。第一、ヨーコを撃った記憶とヨーコが撃たれた記憶すらない。  額に一発。これが致命傷だろう。銃声さえも聞こえない、確実に仕留めるプロの仕事だ。俺ならば、いや。普通の人間ならば、発砲する前に恐怖に失禁するのが関の山だ。  意外にも「ひどいことをしやがる」と眉を顰める自分がいるのに驚く。  だが、それは俺以外の第三者がワイドショーで子供が虐待されて殺された事件の再現ビデオやら、関係者の証言やら、魔に憑かれたような鬼母の顔やら、他人事のレポーターのコメントやらを見て義憤に駆られているようなもので、サウナ上がりのレモンチューハイでも飲めば忘れてしまうくらいのかすり傷さえ残らない軽く、他人事の「ひどいことをしやがる」だ。
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