鼻桜

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 葉桜がゆらゆらと舞い、僕の鼻にペトンとついた。それが恥ずかしいという自意識とは別に、あたりを見ると誰もこの鼻桜を見ていなかったことに僕は内なる恥ずかしさを覚えた。  そうだ。周りの人たちは自分のことで、そして正面にいる上司や、彼女や、ちょっと気になるあの子などのことで忙しい。桜を見ることすら、後回しか時間つぶしにしているこの状況下で、僕にかまっている暇などないのである。  だが、だ。  それでも僕のことを認知はしているだろう。よしんば、花見のメンバーと僕のことについて話のネタにくらいしたはずだ。  なぜなら、僕は今やこの花見のメッカと言われる場所で、かれこれもう八時間も一人でシートの上に座り尽くしているのだ。僕がここに着いたのと同じころから花見を始めている人たちもいる。さすがに話題にしないほうがおかしいだろう。  彼らもきっと最初は「あの人、花見の場所取りなんだ」とか「なかなかメンバーが、来ないのね。可哀想に」などと思ったであろう。僕が座っているこのセルリアンブルーの色をしたシートは、おそらく十人はゆうに座れる広さである。だから皆、僕のことを場所取りの人材と思っているにちがいない。だがそれにしても同僚なり、友人なりが来るのが遅いのではないか。疑問や心配、同情など、多くの感情が少しは渦まいたはずだ。彼らは花見客ではあるが、人間でもある。  だが彼らは、僕がここにいる本当の答えを知り得ない。僕は本当は知ってほしい。だが、知り得ない。さきほどからそんな気がしてきた。そして、桜がなんとなく嫌いにも。    時間は夜の七時に差し掛かろうとしている。桜が桜色ではなくなってきた。肌寒さを感じる。桜色の風景で忘れがちだが、この時期はまだ冬の名残が色濃く残っている。  冬。冬もあまり好きではない。  今もその気温の低下に応じて、僕への視線もさらに強くなるはずだ。首こそ曲げないが、目の黒で僕を追い回す頻度は増えるはずだ。  いくら仕事終わりで、同僚たちが駆け込んでくるにしても遅いのではないか。いくらまだ若いからといって、一人で場所取りさせるのは可哀想だ。パワハラではないか、花見ハラスメントといってもいいのではないか、いや、場所取りハラスメントか。  もし今、僕の周りで花見を謳歌している人たちが、頭の片隅でもそんなことを思っているとしたら。それは大きな間違いだ。  僕はここで会社の同僚を待っていない。残念ながら恋人も友人も待っていない。  そうだ、僕はこんなところで恥をかいてまで、誰を待っているんだろう。  美桜ちゃん。  微かに暗闇に浮かぶ、君の顔。よく笑う子だった。その笑顔が何度も僕の心を揺さぶった。  なぜこんな気持ちになるのだろう。仲の良い友達が笑ってもこんな気持ちにはならないのに。当時もそれが恋だと気付いていたはずだが、確証はなかった。でもそれがすぐに確証に変わる出来事があった。 「ねぇ、下村くん」  ある日、君は珍しく神妙な面持ちで僕の名前を呼んだ。僕は期待と不安が混じった気持ちで君の顔を見た。すると不安が色濃くなった。 「ねぇ、下村くんに一つだけ言わないといけないのとがあるの」 「なんだい」  僕はなるべく動揺していないふりをした。そのほうが男らしいと思っていたからだ。でも彼女の次の一言は耐えられなかった。 「私、転校するの」 「え・・・」  全身の脈動が止まった気がした。 「私、来月から転校するんだ。お父さんの仕事の都合で。ほんと、よくある話だよね」 「え、来月って、二月じゃないか。そんな中途半端な時期に転校って。普通、四月とかじゃないの?」  僕は我を忘れそうだった。焦った。嫌だった。 「うん。でもイドウだから仕方ないって。ゴメンって、何度も謝られた。イドウってなんなの」 「イドウ……」  僕は頭の中で何度もイドウという言葉を探した。でも出てくるのは「移動」だけだった。それが違うイドウだということくらいは、わかっていた。 「どこに転校するの?」  僕は恐る恐る訊いた。 「北海道だって」 「北海道? 北海道ってあの北海道だよね?」 「そう。しかも北海道の中でも、とびきり北の、稚内ってところなんだって」 「稚内? 知ってるよ。そこ北海道の中でも最北端だよ。僕、ゲームでやったことあるんだ。じゃあさ、もうほとんど会えなくなるってこと?」  僕は自分を奈落に落とすような質問をした。それでも「ほとんど」という言葉を使ったことは、本当の奈落には落ちたくなかったのかもしれない。君は「うん」と頷くだけで声を発さなかった。 「あのさぁ、一つ気付いたんだけどさ。私の名前って美桜でしょ? で、下村くんの名前は樹じゃない?」 「う、うん」  今更なんだよ、と僕は思った。 「二人の漢字の一部を合わせると、『桜の樹の下』ってなるじゃない?」 「あ、ほんとだ。まぁ、木が難しいほうの樹になってるけどね」 「もうっ、そんなこと言わないの。でもさ、北海道って桜咲くのかなぁ。なんか私、たぶん咲かない気がするの。暖かいところにしか咲かないって聞いたことがあるから」  僕もそんな気がした。 「だからさぁ、下手すると私これからずっと、桜を見れないのかもしれないの。自分の名前に入っているのにね」  横を見ると、大きな桜の木があった。もちろん今は咲いていない。 「だからさ、十年後この桜の木の下で待ち合わせしようよ」  君は希望に満ち溢れた顔で言った。 「でも十年後の今は、同じように桜咲いてないから、なんか淋しくない?」  僕は心とは裏腹なことを言った。まだ整理がついていなかった。 「そうねぇ。じゃあ別に、十年後のぴったり今日じゃなくてもいいじゃない。そうだ! 私の誕生日が四月五日だから、十年後の今から二ヶ月くらいあとだけど、その日にここで待ち合わせしようよ」 「四月五日かぁ。いいね。そのころだったら満開だろうな」 「じゃあね、下村くん」 「うん、元気でな」  なにが「元気でな」だ。  なにが「そのころだったら、満開だろうな」だ。  そうだ。たしかに満開だ。満開すぎて、周りに人が溢れてるよ、美桜。  どうして、こんなことが予見できなかったんだ。そうか、子供だったからか。仕方ないか。  僕が姿勢を崩すと、鼻についていた葉桜が落ち、僕の膝にふんわりと着地した。  あーあ。あえてつけておいたのに。
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