若木

1/1
前へ
/5ページ
次へ

若木

 その日の夕暮れ、山は騒がしかった。追う人間と追われる人間が、山の中を駆ける。 「(さく)走って! 早く!!」 「あんた! 待ってよ!! あたい、そんなに早く走れない!!」 「追っ手に追いつかれたら、お終いだ! この山を越えれば、追っ手も来ないはずだ!」 「わかってる。わかってるよ、あんた。でも!!」 「とりあえず、あの桜の木まで行こう! あそこまで行ったら少し休んでもいいだろうし」  貧しい農民の青年と娘が、山の中に気まぐれみたく存在する空き地の、まだ若い山桜の下で足を止めた。二人はこの小半刻山を必死で駆け登ってきたのだ。山桜は今が盛り。白い花びらがぼんやりと夕暮れに浮かび上がっている。 「こ、ここまで来れば流石に若旦那たちだって追っかけては来ないだろ」 「そ、そうだといいんだけど……」 「ああ! 見ろよ、(さく)。この桜の木、立派に花をつけているよな。覚えているか? この下で二人だけで花見したの」 「あの時は……楽しかったね」 「ああ、そうだな。その時に俺、春が来るたびに桜とこの木の下で花見をしたいって思ったんだ。家族になって、最初は二人だけかもしれないけど、そのうち子供が増えて、その子達が大きくなって結婚して、孫ができて毎年みんなで花見をする……そんな人生を(さく)と送りたいって」 「あ……あたいだって同じ気持ちだったよ……でも……村から逃げちゃったら……この木ともお別れだね」 「(さく)。庄屋の若旦那とは絶対結婚したくないんだろう? 二人で逃げて……落ち着いたら桜の木を、」  そこまで男が言った時、薄闇を切り裂く音がして、飛んできた矢が男の胸を貫いた。 「あんた??」  桜が崩れ落ちた男の体を抱き抱える。男がゴフッと血を吐いた。 「あんた!?」 「さ、(さく)……」 「あんた!!」  血の気が抜けていく男の顔を見て、(さく)はもうダメだと見てとったようだ。  涙を流しながら矢の飛んできた方に視線を向ける。すると、生い茂る木々をかき分けてガサガサと追っ手が現れた。 「(さく)。やっと追いついたよ。さあ、こっちへ」  追っ手の中心にいる若い男が、(さく)へ呼びかけた。 「若旦那様!?」 「ああ。行くな、(さく)。行かないで……」  虫の息の男が、呻く。だが、追っ手の一人が(さく)を立たせ、若旦那の方へ引きずっていく。 「あんた……!!」 「さあ行こう、(さく)。あいつのことは忘れなさい」  若旦那が(さく)の肩を抱き、瀕死の男に背を向けた。 「ーーっ。あんた!!」  (さく)は振り返り悲痛な声を発したが、若旦那に強引に連れ攫われれていった。 ー(さく)。行かないでくれ……ー  置いていかれた男の思いは言葉にならず、山の夕暮れに溶けて、消える。  山桜の若木がさわりと満開の花を揺らした。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加