2人が本棚に入れています
本棚に追加
若木
その日の夕暮れ、山は騒がしかった。追う人間と追われる人間が、山の中を駆ける。
「桜走って! 早く!!」
「あんた! 待ってよ!! あたい、そんなに早く走れない!!」
「追っ手に追いつかれたら、お終いだ! この山を越えれば、追っ手も来ないはずだ!」
「わかってる。わかってるよ、あんた。でも!!」
「とりあえず、あの桜の木まで行こう! あそこまで行ったら少し休んでもいいだろうし」
貧しい農民の青年と娘が、山の中に気まぐれみたく存在する空き地の、まだ若い山桜の下で足を止めた。二人はこの小半刻山を必死で駆け登ってきたのだ。山桜は今が盛り。白い花びらがぼんやりと夕暮れに浮かび上がっている。
「こ、ここまで来れば流石に若旦那たちだって追っかけては来ないだろ」
「そ、そうだといいんだけど……」
「ああ! 見ろよ、桜。この桜の木、立派に花をつけているよな。覚えているか? この下で二人だけで花見したの」
「あの時は……楽しかったね」
「ああ、そうだな。その時に俺、春が来るたびに桜とこの木の下で花見をしたいって思ったんだ。家族になって、最初は二人だけかもしれないけど、そのうち子供が増えて、その子達が大きくなって結婚して、孫ができて毎年みんなで花見をする……そんな人生を桜と送りたいって」
「あ……あたいだって同じ気持ちだったよ……でも……村から逃げちゃったら……この木ともお別れだね」
「桜。庄屋の若旦那とは絶対結婚したくないんだろう? 二人で逃げて……落ち着いたら桜の木を、」
そこまで男が言った時、薄闇を切り裂く音がして、飛んできた矢が男の胸を貫いた。
「あんた??」
桜が崩れ落ちた男の体を抱き抱える。男がゴフッと血を吐いた。
「あんた!?」
「さ、桜……」
「あんた!!」
血の気が抜けていく男の顔を見て、桜はもうダメだと見てとったようだ。
涙を流しながら矢の飛んできた方に視線を向ける。すると、生い茂る木々をかき分けてガサガサと追っ手が現れた。
「桜。やっと追いついたよ。さあ、こっちへ」
追っ手の中心にいる若い男が、桜へ呼びかけた。
「若旦那様!?」
「ああ。行くな、桜。行かないで……」
虫の息の男が、呻く。だが、追っ手の一人が桜を立たせ、若旦那の方へ引きずっていく。
「あんた……!!」
「さあ行こう、桜。あいつのことは忘れなさい」
若旦那が桜の肩を抱き、瀕死の男に背を向けた。
「ーーっ。あんた!!」
桜は振り返り悲痛な声を発したが、若旦那に強引に連れ攫われれていった。
ー桜。行かないでくれ……ー
置いていかれた男の思いは言葉にならず、山の夕暮れに溶けて、消える。
山桜の若木がさわりと満開の花を揺らした。
最初のコメントを投稿しよう!