巨樹

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巨樹

「桜の木か。最後までツイてないな。俺は」  山を登ってきたホームレスの男は、そう呟くと満開の山桜の巨樹に背中を預けた。否、背中を預けても座る姿勢を保てず、ずるずると地面に寝転がる羽目になった。  白いものの目立つ伸び放題の髪とひげ。男は手に持っていたペットボトルを口元に持っていくが、中身はもう空っぽだった。 「ああ。もう終わりか……」  ペットボトルが転がった。男は白い花を付けている桜の木を見上げる。  男の脳裏に、これまでの人生が思い出される。 ー走馬灯、かー  男にはもう、呟くだけの力も残っていなかった。  男が最初に人生につまずいたのは、有名私立幼稚園の入園試験の時だった。 <サクラチル>  合格間違いなし。そう自信満々だった幼児の心はその知らせで打ち砕かれた。  有名私立小学校の入学試験も。 <サクラチル>  今度こそと気合を入れて受験した、難関中学も。 <サクラチル>  次こそは絶対合格間違いないと、張り切って受けた超有名な私立高校の受験も。 <サクラチル>  人生の逆転を狙って受験した、最難関の大学も。 <サクラチル>  仕方なく滑り止めで合格していた大学に入ったが、ことごとく受験に失敗したダメージは男の脳にしっかりと傷を付けていた。  やけになって、大学四年間勉強せず遊びまくっていたのが良くないのは、男も自覚していた。  当然ダメだろうと思っていた就職試験は予想通りに<サクラチル>で、なんとか就職できたのはブラック企業、強制的に働かされる日々が待っていた。 ーだが、桜也(さくや)……お前だけは絶対許さない。死んでも許すものかー  男は、女の名前を呪詛のように念じた。  その脳裏に、鮮やかに女の顔が浮かんでいた。盛りの桜のように艶やかに華やかに笑う女の顔が。  その女に出会ったことが、男が破滅する最後の一押しだった。桜也・水商売の女に入れ込んだ男は、拝み倒し口説き倒し、とうとう女を手に入れたのだ。  その女がいれば、社畜な人生にも満足できると思っていた。だが、結局男は体と精神のバランスを崩した。  そして、桜也は男が行き詰まると同時に、見切りをつけ去っていった。男の財産全てを持って。そうして、男は全てを失った。  あとはお決まりのルート。ホームレスになり、街の一角で捨てられたゴミと一緒のような人生を送った。  そんな男の体に致命的な異変が起きたのは数年前。その異変はだんだんと大きくなり、最期を悟った男は、せめていい景色の中で死にたいと、ボロボロの体に鞭打って山を登ってきたのだ。  そして、山桜の下でとうとう動けなくなった。  桜は俺にとって呪いみたいだったな……。  ぼやけた視界で、男は桜を再び見上げた。  俺がどん底ににいる時、桜はいつも豪華絢爛な花の盛りだった。  まるで、俺の不幸・悔しさ全てをあざ笑うように咲いていた。  最後の女・桜也も同じだ。女が俺の元を去る時の笑顔。あれほど淒艶な微笑みを俺は見たことがなかった。捨てられるとわかっていても、俺は桜也のあの笑顔に魅了されたのだ。  ああ……桜なんて大嫌いだ。こんなにも壮麗に咲く桜は。どんな惨めな状況にいても、目を心を魂を奪われ、そしてより一層俺の無力さを際立たせる。  それなのに、結局俺の終着点は桜の花の下なのか……。  咲き乱れる花の向こうに、春の青空が見える。白と青は鮮やかなコントラストを作り、春爛漫を告げていた。その下に遠くかすんで男が生き彷徨った都会のビル群が見える。  風が吹いて、満開の山桜がざわめいた。 <桜の下にて春死なむ>か。誰もが望む死に様。まあこれで……俺の人生の帳尻が合ったのか?  また風が吹いて、満開の山桜がざわめいた。  その様子に男は微かに違和感を持った。この景色を俺はいつか見たことがある!  そうだ。あの時も、あの時も、あの時も。俺の最後はこの樹の下だった!!  この満開の花の下で、俺の人生はいつも終わっている!  ダメだ。ここで死に、この樹に躯を喰われてはダメだ。  成仏できず、また再び輪廻に囚われ、またこの樹の下で死に、桜に喰われるのだ!  前世の記憶を思い出した男は、必死に立ち上がり、樹から離れようとした。  だが、とうの昔にそんな力は無くなっている。  山桜の花が風に揺れている。  逃げられないのか……。今度もまた、この桜に喰われその美しさの養分となるのか。  山桜の花が笑うように風に揺れている。  桜は嫌いだ。  目を開ける力も無くなって、男はゆっくりと瞼を閉じた。  その瞼の裏に、満開の花が鮮やかに浮かんでいた。  ああ、だから俺は桜が嫌いだったのだ。俺の死を喰いこんなに鮮やかに咲くのだから。
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