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桜を好きになるには
「で? 岩井のその失恋話と桜、何の関係があるんだ?」
桜咲さんは、怪訝そうに私をじっと見つめる。
「その私の彼を取った親友だと思ってた女の子の名前が『桜』なんです。それ以来、桜なんて見るのも聞くのも嫌なんです」
だから、この季節、私は下を向いて歩く。
けれど、もう少しすると、今度は儚く散った花びらが地面を淡い色に染める。
私は、その美しい花びらが、人に踏まれて茶色く汚れていくのを見ると、なぜかあの日の彼女の薄笑いが思い出されるのだった。
私の話をじっと聞いていた桜咲さんが、私の頭にぽんっと左手を置いた。
「辛かったな」
そう言って、私の頭をくしゃくしゃと撫で回す。
「岩井、もう一度、桜を好きになってみないか?」
桜咲さんは、頭の上の手をそのままに、私の顔を覗き込む。
「? どうやって?」
私は首を傾げる。
「俺を好きになればいい。桜咲のおうは桜だぞ」
確かにそうだけど……
「って、桜咲さん、既婚者じゃありませんか! ダメです。私、自分がされて嫌なことはしないんです」
桜咲さんはいい人だけど、不倫なんてとんでもない。
すると、桜咲さんは頭の上の左手を下ろして私の前に甲を上にして差し出す。
「指輪、ないだろ? 先月、離婚したんだ」
えっ?
そんなの初めて聞いた。
「うそ? だって、桜咲さんとこ、小さなお子さんいらっしゃいましたよね?」
確か、私が失恋した少し後に、出産祝いをみんなで出し合って贈った記憶がある。
「いるよ。でも、他に好きな人ができたって言うやつと一緒にいてもお互い辛いだけだからな」
そう言った桜咲さんは、右手に持ったビールを一気に飲み干した。
「俺が浮気したわけじゃないのに、なんで俺は子供に会えないんだろうな。養育費は払ってるのに」
そう呟いた桜咲さんの顔が寂しそうで、気にかかる。
いいかな?
こんなことしたら、怒られる?
迷いながらも、私は、手をすいっと伸ばして、桜咲さんの頭を撫でる。
その寂しそうな姿を見たら、そうしてあげたかったんだもん。
「くくくっ、どうした、岩井?」
桜咲さんが、私を見て苦笑する。
「お返しです」
桜咲さんの髪は、思っていたより柔らかくてふわりと感じる。
「誰にも言うなよ。変に気を遣われるのは嫌なんだ」
そう言いつつ、されるがまま、私に頭を撫でられている。
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