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1.ハッピーバレンタイン
高校一年生のバレンタインデー、日曜日。はじめてガトーショコラを手作りした。これから公園で待ち合わせて、直接渡す手筈となっている。
不器用なわたしにしては、よくできた方だと思う。頑張った。かなり、頑張った。
わたしのお菓子作りは、まず親愛なるお母上からキッチンを貸してもらう交渉から始まった。
「はぁっ⁉あんたにお菓子作り?むりむり、市販を当たんなさい」
これがなかなか難攻不落で、母からは開口一番に突っぱねられた。
何度お願いをしても、なかなか首を縦に振ってくれない。
仕方がないと父の力添えを借りようとしたけれど、そういえば我が家では父のヒエラルキーは最下位であることを思いだし、呆然とした。
けれど、それもこれもぜんぶ、大好きな彼氏さんのためだと思えば、全然許せた。
「彼氏さん」。
いまだに、「彼氏」と言うことがどうしてもできない。
どうしても彼氏“さん”と付けてしまう。
大好きがあふれ出して、尊敬の念がどうしても呼称ににじみ出す。
どこが大好きかと言われたら、一日では語り尽くせないほどある。
笑うと目がかまぼこみたいに垂れるところ。
実は料理が趣味なところ。
走るのは速いのにダンスは超絶へたなところ。
昼休み、みんなが学食のカレーに走る中、ひとりお母さん特製のお弁当をおいしそうに頬張るところ。思い出したら不思議とにやけてすまう。
そんなわたしの彼氏さんの名前は、片平くんという。
「あんた、何その包み方!
めちゃくちゃ雑じゃないの、片平くんにがさつ女だと思われちゃうでしょ、まったく。ほんっとに、あんたってアホなんだから」
ガトーショコラをクッキングシートで丁寧にくるんでいた後ろから、母のうるさい声が飛んで来る。
親というのは、かくして娘に対し文句を言うことしか能がない。
片平くんにかわいいと思ってほしくて付けたリボンの髪留めは「こどもっぽい」だの、慣れないながらも頑張って施したお化粧は「アイラインがきつすぎて、まるで国際的に指名手配された暗殺者みたい」だの。
さっきも、たまごをレシピの二倍量入れてしまったせいで、ずっと「アホ」呼ばわりされている。そんなふうにけなさなくたっていいじゃないか。
結局、たまごを二倍量入れてもおいしくできたことに変わりはなかったのだから。
「べ、別にいいもん!片平くんならちゃんとわたしの良さをわかってくれるしっ」
けれど、親は文句しか言わない生き物だと知っていてもなお、そのひとつひとつがじわじわとわたしの心に傷をつけていって、痛い。
やっぱり、髪留めのリボンは大きすぎたかなぁ。
右手でポニーテールに結った髪をせわしなく触り、それからわたしは慌ただしくラッピングしたガトーショコラを手に取って家を出た。
片平くんと待ち合わせた公園まで小走りしながら、頭の中ではずっと、その日の朝母から言われたあらゆる方面からの文句がリフレインしていた。
どうしてお母さんなんかに片平くんのことをしゃべってしまったのだろうと思う。
中学三年の卒業式の日、玉砕覚悟で口走った「好きだよ」の返事が「俺も」だったことに少々舞い上がりすぎたのだろうか。
人生で初めての彼氏ができて、誰かれになく自慢したかったのだろうか。
その時の自分の浮かれっぷりを思い出すたび、顔から火が出そうになる。
今日もまた、あの告白の日のことを思いだして、ほっぺたと耳が熱くなった。
絶対にゆでだこのようにまっかに染まりあがっているであろう顔を片平くんの前に差し出すのは気が引けて、わたしは冷えた手をほっぺたにぎゅっと押しつける。
これだから、恥ずかしくなるとすぐ耳まで赤くなる体質の人はつらい。おとなになってもこの体質が治らなかったらどうしよう。不安になる。
授業中に見知ったクラスメイトの前で発表するだけでも赤面するわたしが、会社でプレゼンしたり営業ではじめましての人たちと話したりできるのだろうか。先が思いやられた。
けれどそんな脱線した不安は、公園のベンチに座っている片平くんの姿を捉えた瞬間、嘘みたいに消え去ってしまった。
「片平くん、お待たせしました!」
スマホをいじっていた片平くんに声をかけると、こちらを見上げてにこっと笑ってくれた。お行儀よく並んだ白い歯がのぞく。
片平くんは手にしていたスマホを、画面がわたしに見えるように掲げた。
「ちょうど今、花乃ちゃんにメッセージ送っちゃった」
慌ててわたしのスマホを見れば、ロック画面に通知のバナーが一件。
モアイ像のアイコンが「着きました(筋肉の絵文字)」と言っている。
返事をせねばと「わたしも今着いたとこ!」と送ったら、「知ってる」との返信。その次に飛んできた
「かわいい」
という一言は、スマホを介してではなく、目の前にいる生身の片平くんからこぼれおちた言葉だった。
「ぬえっ、えと、ありがとう!片平くんもかわいいよ!」
付き合ってもうすぐ一年経つと言えど、片平くんからの「かわいい」にいまだに慣れない。
中学時代、反抗期真っただ中だった男子たちの「は?近づいてくんなブス!」オーラが世間一般的な男子だと思っているわたしにとって、こんなにもストレートに甘い言葉をくれる片平くんに、いつもどぎまぎしてしまう。
「ぬえっ」だの「ほへっ」だのといった変な感嘆詞とともに「片平くんもかわいい」と返すのだが、果たしてこれが正解なのかはわからない。
もしかすると、男子だったら「かわいい」より「かっこいい」と言われたほうが嬉しいのかもしれない。
けれど、片平くんを前にしてわたしには考える余裕がない。
せっかく元の肌色に戻っていたほっぺたを再び上気させながら、わたしは唐突に「はいっ」とラッピングしたガトーショコラを押しつけた。
「えっ、何これ!」
紙袋、花柄が小さくあしらわれたクッキングシート、さらにアルミホイルの三重包みでがんじがらめに守られたガトーショコラに、片平くんは目を丸くしていた。
「ガトーショコラ。わたしが作ったの」
一瞬の沈黙。
あらためて手作りしたガトーショコラの味と見た目に自信がなくなってくる。
どうしよう、もしも片平くんに「こいつ、がさつ女!」なんて思われたりしたら。
「全然料理できねえじゃねえか、使えねえ」だなんて失望されたりしたら。
無性に目の前のガトーショコラがだめだめに思えてきて、無意識にリボンの髪留めをしきりに触ってしまっていた。
「……俺のために作ってくれたの?花乃ちゃんが?」
けれどそんな不安など、片平くんの言葉を一度聞けばふっとんでしまった。
まだ低くなりきらないやわらかな響きの声色。
喜びをめいっぱいに表したような口調。
かまぼこみたいな形に垂れた目。
あぁ、これで正解だった。思わず笑みがまろびでた。
「ハッピーバレンタイン」
「ありがとう、花乃ちゃん。大好き」
「……っ、わたしも!」
わたしたちは、おたがいに顔を見合わせて照れ笑いをした。
幸せだった、高校一年生、2月14日。
悲劇が訪れたのは、その次の日、月曜日。
――― 片平くんが学校を休んだ。
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