2.バッド・バレンタイン

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2.バッド・バレンタイン

「おっはよー、花乃!」  担任のクラス点呼と欠席確認が終わり、朝のショートホームルーム後特有の騒がしさが訪れるやいなや、まっさきにこちらに来てくれたのは、友達のミズハだった。 「昨日はどうだったのよ、バレンタイン渡せた?」  2月15日ということもあり、ミズハの話題はやっぱりバレンタインデーだった。 「渡せた!ガトーショコラ、たぶんうまく作れてたと思う!」 「へー、よかったじゃん!感想聞いた?」 「んー、まだ」 「なんだよー、早くメッセージでも入れろってのに……と思ったけど、片平休みなのか」  ミズハはあたりを見回して、一番後ろにぽっかりと空いた席に目を向けた。  机の左端に走り書きされたド・モルガンの法則。  それはまさしく、片平くんがいつも座っている席だった。 「今日なんで休んだんだろうね」  ミズハは不思議そうに首をこてんと曲げた。 「理由とか聞いてる?」 「まだ。メッセージ、既読つかなくって」  だいじょうぶかなぁ。昨日まで元気だったのに……と思いかけて、はっとした。  バレンタインデー。ガトーショコラ。突然の休み。 「……もしかして、わたしのガトーショコラのせいで、おなかを壊した、とか……」 「な、ないないっ!考えすぎ!」  ややもするとネガティブになりがちなわたしに、ミズハは慌ててフォローしてくれた。 「そう、だよね!」  けれど、既読のつかないメッセージが妙に気になってしかたなかった。  その日、片平くんからメッセージの返信が来るまで、わたしの心はここにあらずでどこか上の空だった。 「ごめん、メッセージ返すの遅くなった」  その日の夜八時ごろ、ぴーろんっという通知音とともに表示されたモアイのアイコンを認めるやいなや、わたしはマッハでメッセージを開いた。  「ごめん、メッセージ返すの遅くなった」の1日前には、「着きました(筋肉の絵文字)」。  今日のメッセージには絵文字がないことに、意味もなく不安を覚える。  その不安をぬぐいたくて、わたしは慌ててスマホに指を滑らせた。 「おつかれさま!今体調大丈夫?」  うわぁ、漢字を使いすぎたと後悔する間もなく、手が勝手に送信ボタンを押す。それから間髪入れずに、再びモアイのアイコンがメッセージアプリ上に躍り出た。 「うん、おかげさまでだいぶ元気(筋肉の絵文字)」  それより、今電話してもいい?  その次に送られてきたメッセージは、片平くんにしては珍しい頼みごとだった。  めったに片平くんから電話を所望されることはない。  急いで「いいよ!」と送るやいなや、モアイ像もとい片平くんからさっそく電話がかかってきた。 「もしもし、花乃ちゃん?今だいじょうぶだった?」  優しい声が耳に流れ込んできて、思わず顔がゆるむ。 「うん、だいじょうぶだよ!片平くんこそ、今だいじょうぶなの?」 「へっちゃら」 「よかった!どんなふうに体調悪かったの?風邪?」  どうか風邪であってくれ、と願いながら次の質問を繰り出す。  返事はすぐに飛んできた。 「いや、ただ気分が悪かっただけ。少し吐いたくらいで、今はどうともないよ」  ガトーショコラで食あたりを起こした説が濃厚になってきて、わたしの額から冷や汗がにじみ出てきた。 「もしかして、昨日のバレンタインデーの……」  おずおずと切り出せば、片平くんは慌てて「違う違う」と否定した。わたしが言い終えないうちに、即座に否定した。 「違うんだよ、あれはめちゃくちゃおいしかった!ほんとにありがとね」  だけど、言わなきゃいけないことがあって。 「俺ね、実はたまごアレルギーなんだ」 「……え?」  一瞬、手の力が抜けて、スマホがぽとりと滑り落ちた。  片平くんが「おいしい」と言ってくれたガトーショコラには、まちがえてたまごがレシピの二倍量入っていたはず……。 「花乃ちゃん?だいじょうぶ?」  落っこちたスマホから片平くんの声が聞こえてくる。  慌てて電話を取り直したけれど、どこから何と言えばよいかわからず、耳にスマホを押し当てたまま言葉に詰まった。 「ごめんね、話続けてもだいじょうぶ?」  あまりに沈黙するわたしを心配したのだろう、片平くんの声はわたしを気遣っていた。  わたしはかすれる声で返事をした。 「だいじょうぶだよ」 「うん……俺ね、生まれた時から重度のたまごアレルギーで、少しでも食べるとすぐ吐いたりじんましんが出たりする体質だったんだよね」  たまごが付いた箸を舐めるだけでも、すぐに反応が出てしまうようなひどさだったのだという。 「小さい頃からずっと病院にお世話になりっぱなしで、うちの母親はそのたびに食事を工夫してくれたり、保育園や学校と相談したりしてくれた。たまごの代わりになる材料を考えてくれて、毎日朝早く起きて、給食の代わりに弁当を持たせてくれて」  昼休み、お母さんお手製のお弁当を頬張る片平くんの姿が目に浮かんだ。 「俺が少量のたまごでも過剰に反応するからって、片平家で卵料理が出ることはまったくと言っていいほどなかった。もちろん、バースデーケーキもクリスマスケーキも食べたことないし、バレンタインデーも今まで俺には無縁だと思ってた。 ……だから、花乃ちゃんからガトーショコラをもらった時、すごく嬉しくて、それで思わず食べちゃったんだよ」  けれど、ここ数年おさまっていたたまごアレルギーは、わたしが作ったあのガトーショコラでいともかんたんに逆戻りしてしまった。 「ご、ごめんなさ……」  泣いていいのはけっしてわたしじゃないのに、無意識に涙がぽろぽろとこぼれ出て、自分に腹が立ってしかたなかった。 「泣かないでよ、花乃ちゃん」  それなのに、片平くんの言葉はあくまでもずっとわたしに甘くて、逆に追い打ちをかけられたようだった。  片平くんにこう言われて、堰を切ったように涙がとめどなく滴った。  その後、どういう会話があって電話を切ったのか、覚えていない。  けれどとにかく、わたしはいつの間にか床の上で電気もつけっぱなしにしたまま眠っていて、次の日起きてみたら、朝の霞んだ脳内であるひとつのたくらみだけがひときわ強い輝きを放っていた。
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