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 ワーレルゲルの町は、今日も賑わっている。石畳の道を馬車が行き交い、水路では積み荷や客を乗せた小舟が擦れ違う。裕福なものばかりではなかったが、市場を中心に栄えた町には活気が溢れ、たまに起こる諍いといえば酔っ払いの小競り合いか夫婦や恋人の痴話喧嘩という、平和で穏やかな日常に包み込まれていた。  しかし、町の中心から少し北に外れた丘の辺りは、その限りではない。市街から然程離れてはいないが、近付くにつれて商店も家屋も減ってゆき、緩やかな坂を上りきる頃には人々の声もどこへやら、物寂しい静けさだけが漂っている。  そんな丘の上に唯一建っているのが〝緑の館〟と呼ばれる古く大きな屋敷である。先代の先代の、そのまた先代の町長が生まれる以前、外灯がランタンからガス灯に代わり始めた頃に建てられたという木組みの屋敷は、鬱蒼とした森に囲まれて、敷地の外からは姿が見えない事から異名の付いた、真夏でも寒々しい雰囲気のある不気味な建物である。  かつては修道院だったとも、魔女の生き残りが息を潜めて暮らしているとも言われているが、遠い昔の真相を知る者は今はない。  時代に取り残された廃屋は長らく、町の人々が遠巻きに見るだけの背景となっていたが、近頃は〝若い女の亡霊が出る〟と若者の間で噂が広まり、屋敷の窓に人影を見ただの、森で首を吊っていただの、真偽の不確かな話がそこかしこで囁かれていた。  町中が持ちきりになっているその噂を、ただひとり知らない者があった。彼女の名はベティ。何を隠そう、噂の屋敷に住まう本人である。  屋敷どころか寝室からも長らく出ていないベティに、斯様な眉唾物の話を耳に入れる機会はなく、近頃は随分周りが騒がしいと毎夜怪訝に顔を顰めるばかりだった。
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