春限定の“手”

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春限定の“手”

「あのですね、それこそ春限定なんですけど…」  そう控えめに前置きして、紗耶香はカバンの中から何やら取り出し見せた。それは相手にとって想定外のものだったようだ。  ずっとまえから将棋部の高倉が好きだった紗耶香は、大して将棋も知らないのに将棋部に入った。やっぱりというか部では一二を争うヘタッピだった。まあ、紗耶香の他にも下手な部員は多く、部長の高倉はいつも頭を悩ませていた。  ある日高倉が、なかなか上達しない部員たちのまえで「おれに勝てたら何でも言うことを聞いてやるよ」と宣言した。部員たちは驚きはしたが、皆一様に「勝てるはずがない」と、はなっから諦めモードで誰も気にも止めなかった。闘争心をかき立てようとした高倉の目論みは失敗に終わったかに思われたが、彼の眼中にはなかった紗耶香一人だけがメラメラと闘志を燃やしていた。  そして、翌日の放課後。高倉と紗耶香の対局と相成った。  基本的に高倉はいつも飛車角落とした状態で部員らと対局するのだが、それでも全然敵いっこないくらい圧倒的に強い。そこで紗耶香は新たなるハンデを要求した。「春限定で使える手」だと前置きして。  紗耶香がカバンから取り出したのは「春」という駒。  もちろん将棋の駒にそんな駒はない。彼女のお手製の駒だった。厚みのある段ボールを駒形に切って、筆ペンで「春」と書いてある。なかなかの達筆さで完成度も高かった。 「ちょっと、その発想! 想定外すぎるよ。よくできてっけどね」  高倉は紗耶香お手製の駒を手に取り褒める。「うん、本物の駒みたいだ」 「その駒は「歩」の一つとして使います。「歩」とおなじように一つずつしか進めません」  紗耶香がありもしない駒の説明を始めた。 「だけど、これが成ると最強なんです。上下左右斜めの駒を、一気に全部取ることができるんです!」  高倉は駒の裏側を見た。「桜」と書かれていた。ピンクっぽい色でキラキラとデコられてもいた。「将棋の駒を超越してる。ある意味、最強かもな」 「約束は覚えてますよね?」 「え? うん、もちろん」 「桜吹雪で部長を倒します!」 「うぬ、「春」成らば、あり得るかもしれん」  戦国武将のような口調で高倉はおどけてみせた。  結局、紗耶香はあっさり負けた。  自ら考案した春限定で使える最強の駒は、相手陣内に攻め入るまえに簡単に取られ高倉の持ち駒となった。そこから高倉は面白がって紗耶香の駒をほぼ全部取ってしまい、丸裸にしてから王将にとどめを刺した。 「これはもう、そっちが何でも言うことを聞かなくちゃいけないレベルの惨敗だね」 「え〜!? そんな〜」  紗耶香は嫌そうにしては見せたが、内心では従順に「何でも言うこと聞きます!」とウキウキだった。部室に二人っきりというシチュエーションがそういう気分を盛り上げてもいた。だけど、高倉から言い渡されたのは残念ながら部室の清掃だった。「え〜!? そんな〜」  この駒なら絶対に勝てると、その先のことばかり妄想していた昨夜の自分を紗耶香は恥ずかしく思った。高倉の胸の中に飛びこむようにその駒は「桜」と成って、彼の心に春の嵐を巻き起こす予定だった。桜吹雪で「高倉センパイをノックアウトよ!」と鏡に向かいウインクしていた自分。鏡の向こうの自分と目が合う。「きゃあ〜恥ずっ!」  名案だと思ったのに、せっかく時間かけて駒を作ったのに、と紗耶香は悔やむ。 「“春”なんて、何の役にも立たなかったじゃない!」  それを聞いた鏡の向こうの自分が舌を出して笑ってる。 「“桜”なんて大っ嫌い!」鏡に向かってパンチ一発!  自分とのケンカを終えた紗耶香は、散らばった桜の花びらをかき集めるように床を掃き、丁寧にモップがけをしていつもよりピカピカに部室を掃除した。 「これ、気に入ったからもらっていい?」と言って強引に奪われた「春」の駒。その駒が今は高倉のポケットに入っていることを思い、ニヤけながらの帰り道。紗耶香はすでに新しい駒を考えて始めていた。「“夏”が成ると、なんになるぅ?」  高倉へのプレゼントを迷うように、紗耶香は次の一手に頭を悩ませていた。校庭の桜はまだ三分咲きといったところだった。紗耶香の春はまだしばらくつづきそうだ。夏、成らば今度はうまくいくだろうか。
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