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夏の暑さが幾分和らぎ秋風が吹き抜けて行く一本の回廊を、白い装束を纏った男が一人歩いている。伊勢神宮の分詞・新開大神宮の神官、太田黒伴雄である。彼は頭に冠を被り衣の袖をなびかせながら本殿へ向かっていた。 中へ入ると、空気は一変し冷たく厳かな気配が漂っている。彼は一人その中心に座して神前に額づき静に祈り続けている。既に七日もの間火の物を断ち挙句は断食まで課しているから身体は細く痩せ顔色も白くやつれている。それでも彼は一心に神へと祈り続けた。 明治9年3月に断髪・廃刀令が下され、長く続いてきた武家社会に幕が下ろされようとしていた。 太田黒を擁する敬神党一派はこれに大いに反撥。 一党の若者達は日々挙って彼の門を叩き挙兵の期を求めている。暫くは宥め説得を繰り返してきた彼自身も、遂に挙兵已む無しとの見解を示し今正にその進退を決する為の宇気比を行っている所であった。彼は顔を上げ姿勢を正すと両の腕を肩ほどまで上げ大きく柏手を打った。その音は至極清らかで静かな本殿によく響き渡り、痩せ細ったその肢体からは想像付かぬ程力強く響いていた。 宇気比は幾通りかの案を紙切れに書き置いて何れに従うべきかを占うものである。彼は決起すべきか否かを伺う為に、この儀式を行おうとしていた。決起に関しては何度かこの宇気比を実践しているが、ことごとく不可とされ終わっている。 この度の宇気比はまさに彼ら敬神党にとって期待の集まる所であった。挙兵の可否を記した紙切れが置かれ静かに拝するとその一つを錫で拾い出し、恭しく手に取って中を拝み見ると震える手でそれを握り締めた。彼は神慮を伺うと再び深く神前に伏し冷やかな本殿を後にした。 隣接する一室では一党の幹部達が詰めており、彼の姿を静かに待ち続けていた。皆本殿の奥からゆっくりと歩いてくる太田黒の姿を認めると視線を落として彼の言葉を待った。彼は幹部達を見回すと一つ息吐いて静かに言い放った。 「此れより我等は神兵となった」 太田黒の声は低く落ち着き払ったものだった。幹部達はこの時漸く顔を上げて深く頷くとそのまま会議に入り、挙兵が確実なものとなるのである。挙兵の期日は十月廿四日とし、大まかな隊編成も決まった。 参謀達は彼を囲み細かな挙兵の謀議に入った。参謀達の中でも信任厚い富永が彼らの言を聞きそれらを纏めている。彼は大変な切れ者で、この一党を事実上指揮運営してきた人物である。 「鎮西鎮台の司令官種田政明、その参謀長高嶋茂徳、この二名だけは是非とも先に叩いておかねばなりません。従って腕の立つ者を派遣したいのです。」 富永が案を出すとすぐさま答えるものがある。ふと視線をそちらへ向けると同年の高津運記、石原運四郎二名が名乗りを上げていた。富永はこれを見て大いに安堵し彼らに襲撃隊の主力を任せることにした。 「ではこれで全て決まったな。あとは同志達へ知らせ日を待つばかり・・」 太田黒が言いかけたその時、襲撃隊に名乗りをあげた高津がそれを遮った。 「加屋先生の件はどうなされるのでしょうか・・・」 高津は遠慮がちに小さな声で副将加屋霽堅が挙兵に反対している旨を告げた。 「霽堅が・・・・?」 太田黒は目を瞬かせ動揺した。挙兵の時にはまず賛同し一党の支柱になり共に戦っていくとばかり思っていた加屋霽堅が挙兵に対して反対の意を持っているなぞ到底考えられなかった。高津は彼の落胆振りを目の当たりにしながらも敢えて言葉を続けた。並ぶ七名の参謀も俯いてしまっている。 加屋霽堅は河上彦斎、そしてここにある太田黒伴雄と共に林桜園に国学を学びその影響を受けた一人で、世間に門下三強とまで言わしめる程の人であった。学識のみならず、熊本で盛んであった宮本武蔵に習った二刀剣術四天流を修め詩吟和歌をよくする文武の士である。共にこの百七十余名の敬神党一派を纏め上げ桜園の思想をしかと伝え助けてきた同志が欠けるという事は一党の指揮にも大きな影響を及ぼし得策ではない。 「新開・・・では、これから時間を見て我等が代わる代わるに説得を試みてみましょう。加屋先生の存在は指揮に影響するもの。まずは私が行って先生の意を伺って参りましょう。」 そう言って高津は太田黒を励ました。 それから直ぐ様高津と富永は会議を終え新開を出ると錦山へと歩き出した。 「なあ富永、加屋先生はどの様にお考えなんだろうな。」 高津は正直余りこの説得に対する自信がない。加屋霽堅が簡単に人の意見に傾倒する様な人物でない事は分かっていたから高津富永両人は頭を抱えていた。しかし、一党の士気の為にはなんとしてでも協力を得たい。太田黒の落胆する様を見ては何とかしてやりたいと思う気持ちもあって二人は力を込めて門戸を叩いた。 「富永です。加屋先生は居りましょうか?」 少し高く澄んだ声が響く。暫く戸の前で立って待っているとガラと木製の戸が開き加藤社の祠掌を務める木庭保久が顔を出した。 「これはこれはお二方どうなすったのですか?」 「木庭君。加屋先生は居られますか?」 富永は親しく聞いた。平生から敬神党一党の繋がりは縦横に強く、一つの志思想を元に結束している。様々な年齢層で構成されているが皆折り合いよく互いを敬愛し一つの家族的な繋がりすら感じられる。木庭は彼らの問いかけに少し表情を暗くした・・・。 「ふむ・・・。それではここ最近はずうっと家に篭って居られるのか・・・。」 「はい、先日朝参拝に居られましたが・・・そういえば今日はまだ見ておりませんね。」 「で、家に篭って何を為さっているのだろう・・・何か聞いてないかね?」 「い、いえ。私は何も。ただ、思いつめた表情であった事位しか判りません。」 「・・・・」 富永の問いに祠掌の木庭は少しずつ重い口を開く。二人の会話を見守っていた高津は暫く腕を組んで考え込んでいたが社殿へ向かう一人の人物に気づきそれを呼び止めた。 「浦君じゃないですか。」 呼び止められて振り返ったのは木庭と同じく加藤錦山神社の祠掌・浦楯記だった。彼は敬神党の士として活動をする一方、神官不在の社をよく守って今もまた社殿に詣でる所であった。 「高津さん、富永さんまで。一体どうなされたのですか?」 浦は明るい口調で彼らを歓迎し二人の側へ近寄っていった。 二人は此処へ来た経緯を改めて二人の祠掌に伝えた。彼らはある程度覚悟はしていたもののやはり驚きを隠せない様だった。 「そんな訳で、是非とも加屋先生にはご協力頂きたいのです。」 最後に高津がこう締めくくると、二人ははぁ、と頷いた。 「その加屋先生ですが・・・」 浦は高津の言葉に続いて口を開いた。その表情は少し悲しそうなものであった。 「加屋先生がどうした?」 富永がすかさず問う。 「加屋先生は全く皆とは違うお考えをお持ちですから・・・説得はそう簡単なものではありますまい・・・。」 「違う考えとやらを君は知っているのですか?」 「はぁ・・・どうもお一人で奏儀を携えて上京なさるお志の様です。私も詳しい事は知りませんが」 「上京・・・・奏儀・・・・」 富永は眉間に皺を寄せて訝し気な顔をした。 「富永君、これは急いで加屋先生の所へ行った方がいいでしょうね。」 高津に背中を押され、富永は二人に礼を述べると加藤社の山を下っていった。
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