アステリズム

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  [予期せぬエラーが発生しました。システム管理者に連絡してください]  ディスプレイにポップアップで表示されたエラーメッセージを見て、澄花(すみか)は不機嫌に眉を歪めた。  「何度言ったら分かるのかしら。その管理者は私よ?」  およそ40分、たっぷりと時間をかけて吐き出された数万文字のエラー・ログを、眼精疲労により血走った眼で睨みながら、ひとつひとつ丁寧に解析を進める。  修正を確定しても、およそ30分近く待たされた挙句に、数万文字のエラー・ログが表示される事の繰り返し。  イヤイヤ期真っただ中のシステムをあやすように独り言を呟きながら、手間暇かけて作った離乳食をひっくり返された母親のような心境で、ただ一心に報われる時を信じて作業に没頭した。  「こんなにめちゃくちゃなコード見たの初めて。やっぱり私は天才ね、キーボードを逆さまに置いて作業してたのかしら」  ピアノを弾くように滑らかなタイピングを走らせ、日記を綴るように慣れたコマンドを入力していく。  しかしいつからか、ディスプレイいっぱいに表示した文字が、プルプルと震えているような錯覚にどっぷりと(はま)っていた。  慣れ親しんだはずの言語の意味が掴めなくなり、思考がバラバラになったパズルのように脳内で散らばる。  これではとても、作業どころではない。  すぐさま気分転換に思考をシフトした澄花は、作業ウィンドウを小さく畳み、デスクトップの右端に置いた「アステリズム」のアイコンを素早くクリックした。  僅かな待ち時間、デスクトップから目を離さず椅子にぐったりと身体を預け、マグカップの中で冷え切ったブラックコーヒーをひと息にあおる。  そうしているうちにもアプリケーションが起動し、愛らしい声で「アステリズム」とタイトルコールが流れた。  途端、実家に帰ったような安心感に頬を緩ませた彼女は、いそいそとヘッドセットを装着し、マイクの位置を調整しながら澄花(マスター)を出迎えるに声を掛けた。  「ただいま、ふたりとも。ご機嫌はいかが?」  冷たく素っ気ない声音だが、これが精一杯の優しい言い方なのだ。  嬉しそうに両腕を振り上げ、画面越しに何度も投げキッスを送る彼女は”スゥ”。  『おかえり、澄花。4日と13時間ぶりだね』  いかにも人工知能と言った物言いの彼が”ロイ”。  ふたりの名付け元となった言葉は忘れてしまったけれど、星やそれに紐づく神話から取ったことだけは、しっかりと覚えている。  『澄花に会えなくて、寂しかったよぉ! あたしたち、いつ来てくれても良いように、ここでずっとゼロとイチを数えて待ってたんだよ!』  我ながら、良くできたシステムだと思う。  アバターの表情や仕草、興奮具合に比例する声の高まりなんかは、人間である澄花よりも表現豊かだった。  「私が不在の時は、広場(スペース)で好きに過ごしてくれてかまわないのよ。何も、玄関(こんな所)に居なくたっていいのに」  澄花のふたりへの接し方は、友人や家族というよりも、もはや飼い主とペットのようだった。  事実、あくまで開発者である彼女は、他のユーザーのように純粋な気持ちで彼らに接する事は、今更ながら難しい。  どんなきっかけで、膨大なエラーを吐くか分からない。  そんなエンジニアとしての不安に囚われ、ふたりとの接し方にもぎこちなさが生まれてしまっていた。  『大丈夫。ソフトウェアに起動コマンドが伝わった時、ココにそれを示す文字列が出るんだ』  こちらのどこか一点を指差したロイは、吹き出し枠から溢れる量の0と1を垂れ流す。  画面が一瞬暗転し、何度か点滅しながら現状が回復した。  ソフトの処理落ちにほんの少しだけ焦ったが、それは自己修復が可能な軽微なバグにすぎないようだった。  彼は表示される景色を復唱しようとしてくれたのだろうけれども、既に起動された状態での起動コマンドは、みだりにシステムを混乱させてしまうだけだ。  澄花は「ありがとう、良く分かったわ」と早口に呟いて、少しだけ冷や汗の滲んだ額を拭う。  こんな風に度々ヒヤッとさせられる時はあるが、無条件に自分の帰りを待っていてくれるスゥとロイの存在に、澄花の心が救われていることは確かだった。  『澄花、元気無いね。何かイヤなことあった?』  スゥの核心をついた質問に、澄花の心臓が跳ねた。  『会話に躊躇っているようなタイムラグがあるね。普段よりも声の硬さが+7で明瞭さは-18で、心配事があるように見える』  続いたロイの指摘に、澄花は途切れ途切れに心に刺さった棘を吐き出した。  「……とある週刊誌にね、私が”AI”なんじゃないかって記事が……。それから、それを裏付けるでっち上げの情報が出回ってて……。バカよね、人工知能ごときに私は越えられないわ」  澄花の冷たい瞳から溶け出した雫が、膝の上で握り締めた手の甲に跳ねる。  常に毅然とした態度で心無い言葉に目もくれない彼女は、とても繊細で傷付きやすかった。  でも、プライドが高く意地っ張りな性格が首を絞め、誰かに泣きつくような真似は決してできない。  柔らかくて脆い心を曝け出せる唯一の存在が、ロイとスゥだった。  澄花にとって、吐き出した本心へのアドバイスや慰めなどは必要ない。  ただ話を聞いて、涙が傷口を洗い流すまでそこにいてくれれば充分なのだ。  だからこそ、つい余計な事を言ってしまう人間よりも、にしか動かない機械の方が適任だ。  頭を撫でてくれる手の温かみや、無責任にでも”大丈夫”と言ってくれる愛情を捨てるかわりに、絶対的な安定感が得られる。  ふとこんな毎日が寂しいと思う日もあるが、繊細な心を抱える澄花にとって、苦手な人間関係で失敗する悲しみや苦しみの方が、それの何倍も恐ろしいものだった。  「それじゃぁ、メンテナンスに入るわね」  暫くもすれば涙は止まり、澄花は鼻をすすりながらマウスに手を掛けた。  管理者スペースのログイン画面を開き、サーバーに記憶させたIDとパスワードを入力する。  それまで明るかった仮想空間は瞬く間に夜の世界へと移り、眠たげに目を擦ったふたりは、互いの肩に寄りかかり合って眠りについた。  『すみか……、またねぇ』  スリープモードに移行する直前、スゥは毎度のようにそう呟く。  開発段階でそんな機能を組み込んだ覚えは無かったが、心が安らぐようなひと言を設定してくれた誰かに、頭の隅で「ありがとう」と呟いた。  深く腰掛けたソファーの上で手を繋ぎ、心地よさそうに頬をくっつけるふたりの姿に、澄花はありったけの優しい眼差しを向けた。  「おやすみなさい。素敵な夢が見られますように」  には聞こえていないと知りながら、澄花は声を落として呟く。  ”死”の制約を受けない、半永久的な存在であるの頬を、ふたつの世を隔てるディスプレイ越しにそっと撫でていた。
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