アステリズム

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 澄花がエンジニアを目指すと決意したのも、合成音声技術にのめり込んだのも、全てはたった一件の留守電メッセージを残して亡くなった、優しい母への後悔からだった。  その日は昨日から冷たい雨が降り続いていて、ハイドロプレーニング現象で止まりきれなかったトラックによる、玉突き事故に巻き込まれたのだ。  事故は留守電を入れた直後に発生したらしく、正真正銘、それが母の"最期の言葉"となってしまった。  「澄花(すみか)、今日もお疲れ様。お母さん、カレーに入れるじゃがいも買い忘れちゃったから、晩ご飯は少し待っててね」  何千回と聞き返したその音声は、あれから何十年と時を経た今でも、敢えて当時の音質のまま保存している。  ふわふわとした声はアスファルトに跳ねる雨粒の音と、「ピヨピヨ」とけたたましい音量で鳴く歩行者信号の音響に掻き消されてしまいそうだった。  高校2年生の11月、大学受験に向けて勉強漬けの毎日に飽き飽きしていた澄花は、塾からの帰りにそれとなくその留守電を聞いて、げんなりと肩を落とした。  擦り切れた精神に追い打ちをかける騒音を聞かされて不愉快なうえに、そんなくだらない内容を音声で残す必要性が、全くもって分からなかった。  無神経と言うか、気が利かないというのか、そんな母の行動を嫌がらせと受け取ってしまった澄花は、頭の片隅で「迎えに行くべきだ」と囁く声を無視して、真っ直ぐ家に帰ってしまったのだ。  家に帰るとすぐさま机に向かって塾の課題を済ませ、明日の授業準備をして一息をついた。  視界に映った時刻は、留守電が入った時から2時間くらい経過していたと思うが、この時はまだ母の帰りが遅いことにさして疑問は無かった。  リビングでソファーに寝転がりながら参考書を捲り、夕食までに今日の勉強内容がどれだけ定着しているかを確認する。  当時の澄花は英語が大の苦手で、参考書や過去問を何度解き直しても、”言語”をモノにできたような実感が無くて焦っていた。  「テストで良い点を取ることが勉強の本質じゃない。しっかりと噛み砕いて理解して、自分自身の意志で自在に操れなければ意味は無い」と、ストイックが過ぎる心意気だった。  成長が感じられない自分自身に嫌気が差し、躍起になって参考書を握り締めていた時、音もなくリビングのドアが開く。  「何してたの、遅いよ」と文句を言おうとしたその時、ため息交じりにコートを掛けた父の姿に、澄花は目を丸くして皺の寄った参考書を取り落とした。  この時になって初めて、嫌な予感がした。  「ただいま。……母さんは?」  「……おかえり。じゃがいも買いに行くって……、留守電、入っていたの」  玄関の外からでも分かるカレーの匂いに、状況を理解した父は頷いた。  しかし少し考える素振りを見せた父は、足早にキッチンへと向かう。  「……お父さん、私……」  言い知れぬ不安に掻きたてられてキッチンに駆け込むと、ガスコンロの前で鍋に手を触れる父は、(いぶか)しげに眉を(しか)めた。  「捜しに行ってくる。もしも入れ違いで帰ってきたら電話して」  駆け足でリビングを横断し、上着も羽織らずに飛び出そうとする父の腕に縋りついて、澄花は声を荒げた。  「やだ、やだっ!! 私も一緒に行く!!」  その時、冷たいペンキを浸した刷毛(はけ)で背筋を撫でられたような、言葉にしがたい悪寒が走った。  それは父も同じだったのか、ふたり揃ってリビングの時計を見遣る。  20時37分。  目に焼き付いたそれは、母がひとりぼっちで息を引き取った時刻だった。 ☆★☆  母を亡くして塞ぎ込んでしまった澄花は、学校も塾も勉強も放り出して、薄暗い部屋に籠るようになった。  もしも……と、取り返せやしない過去のシュミレーションばかりを繰り返し、気が触れたように母の口調や仕草を真似て、母の服ばかりを着るようになった。  ”人は一番最初に、声から忘れていく”という噂は、そんな澄花にぴったりと当てはまってしまう。  脳内で思い起こせる母は、夢の中で静止画を眺めているかのようなのだ。  表情はぼやけ、優しく緩んだ口元でやっと笑っているのだと分かる程度で、眩い陽光を背にこちらを振り返る姿は、逆光で輪郭がはっきりと掴めない。  記憶の中では常にそよ風が吹いていて、微かに揺れている柔らかな黒髪の先を、右手でほんの少しだけつまんでいた。  『澄花』  音は聞こえず、字幕を読んでいるだけのような気分だ。  右肩を落として首を傾げ、ゆっくりとこちらに両腕を伸ばす影が見える。  『澄花、いつも頑張っているわね』  生まれてからずっと聞き続けた声すら、こんなにも呆気なく記憶から失われてしまう事実が、ただショックだった。  意地でも忘れてやるものかと、澄花は携帯電話に残されたメッセージを繰り返し聞いた。  時が流れ、音声が劣化して、今となってはその”音”が、本当に母の”声”であるのかすらもう分からない。  それでも、言葉に込められた母の愛情を求めて、澄花は大人になってもノイズに侵される音声をずっと手放せなかった。  絶えず「母の声を失わないようにと」考え続けた澄花は、やがて”合成音声技術”に希望を託し、現在の成功に至る。  「もし、もし……もしも、”あの声”を取り戻せるのなら……」  後悔の海に深く溺れながら、北極星に願い続けた真っ直ぐな想いは、神でも王子様(運命の人)でもない、未来の自分自身が叶えてくれたのだ。  彼女が指を痛めてちりばめた願い星は線となって繋がり、およそ半世紀の時を経て「アステリズム(星座)」となってこの世に現れた。  だから澄花はもう、寂しくなかった。  父が撮り溜めていたビデオ記録から両親の声を抽出し、ほんの少しだけ自分の声を足して合成したロイ()スゥ()がいる。  彼女はひとりぼっちだったけれども、決してぼっちではなかったから。  
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