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「聖痕はもう刻まない。する理由もない」
春日井麻里は驚いた……なぜかを聞きたくても意味がない。麻里は樫村しのぶの意志の強さをよくわかっているからだ。だからしのぶなりの理由があるとしかわからなかった。
聖パルーシア学園大学付属病院精神科、思春期病棟の中庭のベンチで、樫村しのぶは長袖の黒い院内服を着て、麻里が来るまでハンディサイズの聖書、使徒行伝を読んでいた。
しのぶの言う「聖痕」を刻みつけるカッターナイフや小ぶりの軍用ナイフは、入院するときに発見され、没収された。約三十分のお説教つきで。
ピンクの函装、新潮社純文学書き下ろしシリーズ、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のページをくり抜き、そこへナイフ類をしまっても、金属検出機とX線異物検出機の併用にはかなわなかった。
ポプラの樹影、暑さに耐えられるベンチで、麻里としのぶは並んで座っている。
そろそろ空を占領する積乱雲が勢いを弱めつつある。そんな季節のある日の午後。
「ねえしのぶ、もうリストカットはやらないの?」
その返答が冒頭の科白だった。
だったら……と麻里は思った。市販の風邪薬や咳止め薬のオーヴァ・ドーズももうやらないのだろう。ナイフや剃刀同様、思春期病棟に入院する際に薬物も見つかってしまう。
それよりしのぶ自身が、オーヴァ・ドーズの、純粋なエフェドリンとコデインの沼から脱出したくてもがいていた。メスカリンの幻覚体験を「みじめな奇蹟」と呼んだのは詩人のアンリ・ミショーだが、咳止め薬もまた、まさにみじめな奇蹟だった。
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