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「あのね、聞いていたでしょう。私が無理を言ったのです」
「それであっさり逃げ出すとは、なんという男だろう! 姫さまも、なぜ素直にお受けしなかったのか。ひとり京に残ってどうなさるおつもりです」
「それはまあ、どこぞの後妻になるとか」
「これだけいわくのついた女を求める物好きがいるものですか!」
「ひどっ……では尼になります」
「出家はそう甘くはありません。御仏をなめてはなりませんよ」
問答していると、侍女の一人が「もし、もし」と声をかけてきた。呼ばれた乳母が出て行き、ようやくひと息つく。まったく、私には衣の袖を濡らす暇さえないのだろうか……。
乳母はすぐに戻ってきた。妙な表情を浮かべ、塗りの盆を捧げ持っている。
「今度はどうしたの」
「それが。これを」
差し出された盆に載っていたのは、小ぶりながら形の良い松の枝であった。枝の中ほどに、味気ない料紙が結び付けられている。
「今、二郎殿の使いの方が持ってこられました」
一瞬、意味が分からず凝視した。
まさかこれは、世間でいうところの後朝の文なのか? 何しろ本物を見たことがないのでよくわからない。私は枝を取り、震える手で文をほどいた。かたく結ばれてしわの入った料紙には、おおらかな筆跡で歌が書きつけられていた。
ふるさとにつま呼び寄せよ呼子鳥遠方の野辺にも花は咲きつる
続けて、「やはり、心に沿う歌ならばすぐに詠めるのだ」などと書かれている。のぞき見していた乳母が声を上げて泣きはじめた。
「ああ、悲しゅうございます! 無粋者がようやく歌を送ってきたのは良かったけれど、姫さまが本当にあのずうずうしい、むくつけ男の妻になってしまうのかと思うと胸がふさがる心持ちで……!」
「あなた、少し慎みなさいよ」
横目に睨むが、乳母は気にするようすもない。
「さあさあ。あの山男の気持ちが山の天気のように変わる前に、返歌をお書きください。つれないことを書いてはなりませんよ。相手は風流を知らないのですから、本気に取るといけない」
相変わらず手厳しいことを言いながら、いそいそと文箱を出してきた。
私はもう一度文を見つめた。故郷に妻を呼ぼう。桜の京から離れても、花は咲いているよ。二郎殿はきっと歌のとおり、しぶとくたくましい野の花を見に私を連れ出してくれるおつもりなのだろう。
文付け枝から松の香りがあざやかに匂い立ち、胸がいっぱいになる。急に出て行ったかと思えば、わざわざ後朝の形でしたためて、間断なく文使いに持たせてくれたというのか、あの二郎殿が。返事を『まつ』というつもりか、手近の若い枝を折り取って……。
そこでふと気づいた。
「これ、どこの枝?」
見れば、葉先まで瑞々しく細やかな手入れの跡がうかがわれる、立派な枝であった。心の向くままに折られたのであろうが、相当なお屋敷、もしくは神社仏閣のものなのでは?
新たな心配ごとに冷や汗かく私を、乳母が文机の前にぐいぐいと押して行った。
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