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膳を下げた後も、二郎殿はまだ唸っている。心配をとおり越し、私はしだいに呆れはじめた。
「桜の歌を作ることが、それほど難しいでしょうか」
古今集の春歌の巻など見れば、山ほど出てくるでしょうに。そう言うと、二郎殿は恨めしげに私を見た。
「それはそうだが、心に沿わないのだ。桜とはなあ」
「まあ、桜はお嫌いですか」
「嫌いというより、どこが良いのかわからない」
衝立の陰から「チッ」と舌打ちの音がする。萩……。それに構わず、二郎殿は子どものように頬を膨らませた。
「桜など食えぬし、香りもさほどせぬだろう。散りざまを褒める向きもあるが、あの呆気なさにはむしろ不穏な心地がする。私はむしろ、野に咲く花の方が好きだ。たくましいし、しぶといではないか。あーあ、近ごろは歌を作れなどと言われるから、ますます嫌になる」
嫌いな理由を数えだすと、とたん饒舌になられた。それにしても、桜より雑草が好きとは、さすが無粋な田舎者ですね……。感心しつつ、私は腰を上げた。
「さては長の夜になりそうですね。私は下がらせていただきます」
「下がる? どこにだ」
「歌づくりの妨げになりませんよう、その辺の物陰で休もうかと。あなたさまはどうぞ、気の済むまでお考えになってください」
「えぇー……」
二郎殿はお貸しした歌本を膝に置き、向き直った。不満げなお顔つきをしていたのが、私を見てはっと目をみはる。
「待て。少々こちらへ」
「なんでございますか?」
「いいから」
ちょいちょいと手招きされる。何ごとかと近づくと、二郎殿は突然、私の裳の裾をつかんで引き倒した。
「ぎゃっ」
後頭部を強打しようかという直前、しっかりした手のひらに支えられる。したり顔の二郎殿はそのまま覆いかぶさってきた。
息苦しさに目を開くと、二郎殿の腕がちょうど胸元にかかっていた。夜明けが近いのだろう、青い薄暗がりに房内のようすが浮かび上がっている。
私は隣の男に目をやった。夢の中でも桜の歌に悩まされているのか、ふだん平らかな額にしわが寄っている。二郎殿の寝顔はよく日に焼け、ところどころに傷があった。京の上達部――色が白く、立ち振るまいも清げに綺羅綺羅しい、満開の桜のような人びと――とは、まるで違った容貌である。
だが私は、いつしかこの男をいとしく思うようになった。二郎殿の、若い松のような傷だらけの体にしがみついていると、しみじみ温かい心持ちがするようになったのだ。
じっと見ていると、二郎殿は身じろぎして私を抱き寄せてきた。
「歌は、思いつきましたか」
「もういい。あきらめた」
そう言って鼻先をこすりつけてくる。首もとをくすぐるひげの心地がせつなくて、私は手のひらで男の顔を押しやった。
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