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「二郎殿、そろそろお帰りになってください」
「そう急くな。さてはヒヨドリではなく、ニワトリの君であったか」
どういう肝の据わり方をしているのか、歌の創作をあきらめたという二郎殿は、さっぱりした表情で肘まくらなどしようとしている。乳母が鬼の形相で朝食の膳を下げるかたわら、私は二郎殿を引き起こして問い詰めた。
「よくよく考えれば、歌の他にもご支度があるでしょう。御衣は新しいものを用意されているのでしょうね。色合わせは春らしくされましたか? お香は? 扇は、その欠けたもの以外にありますか?」
「家のものに準備させている。大事ない」
気を揉む私を見て、二郎殿はニヤついている。本当に憎らしい。
「大事なくとも、当のあなたがいなければどうにもならないでしょう。早く帰って、御髪も整えてください」
せっつき回して帰り支度をさせると、私は袂から紙片を取って差し出した。
「さあ、これを」
「なんだ」と言って紙を開いた二郎殿は、しばし口をつぐんだ。
あずま路に重ね立ちたる白雲は離れどみやこの春は忘れじ
「私の作です。どうせこうなるのではないかと思って、作っておきました。出来はいまいちですが、まあ、あなたの歌が上手くても変ですし」
私とて歌の才がある方ではないのだ。言い訳する私に対し、紙片を見る二郎殿の顔つきは穏やかだった。
「いや、とても良い。それに、あなたの筆跡はいつ見ても美しい。このまま大納言殿に差し上げたいくらいだ」
「えっ、やめてください」
「みやこの春を忘れじ……」
歌の一節を口にして、二郎殿は優しげな笑みを浮かべた。
「確かに、そう思うであろうな。故郷へ帰る折りには」
そう。二郎殿は、近いうちに東国へ戻る。もともと北方の雪解け前に発つはずだったのを、大納言様が「せめて京の桜を見てから」とお引き止めになられていたのだ。
紙片を懐にしまうと、二郎殿は顔を上げてこちらを見た。
「ところで、一緒に来て欲しいと言ったら、あなたはどうするだろう?」
衝立の向こうで、食器が崩れて騒々しい音を立てた。乳母の動揺なぞ気にも留めず、二郎殿は私を見つめている。
「わかりません」私は答えた。
「わからない? やはり、京は出たくないか」
「そうではございません。……ただ、わからないのです。自分の気持ちが」
「何?」
二郎殿は心得ない顔をした。無理もない。彼は、気持ちと行動がひとつながりになっている人なのだから。私に向かって「惚れた」と言い、我が家に足繁く通い詰め、今は一族に迎えてくれようとしている。
けれど、私は? 私の気持ちはどうなるのでしょう。
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