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海を探して
僕は帰りたかった。いつも懐かしい風景を求めて、傷つけ合いながら帰路に迷っていた。
真冬の砂浜で、ウエットスーツをぴったりと着込んだ君は、左手の指先からポタポタと血を流しながらこちらへ歩いてきた。
「ガラスで切ったみたい」
僕が慌てて君の指を口に含むと、「私の海、少し取られちゃった」と口を尖らせながら君は言った。僕は君の波乗りには反対だった。止めるたびに喧嘩になって、君は大声で泣き僕が折れた。
君はいつも詭弁で反論した。
「海は大きくて捕まえられないから、私たちは少しずつ海を攫って、身体の中に閉じ込めたの。でも私の海は帰りたがりなの。波に呼ばれると一緒にいたくて、苦しくなるの」
その春、君は僕をおいて君の海を還してしまった。
恋人が変わるたびに、二人で潮風に吹かれながら、海岸を歩いた。僕は海にたどり着けなかった。違和感だけが僕の心に居心地悪く居座っていた。
誰もが皆その体に海を内包している。けれど、僕の還る海は君の中だけにあった。少しかすれた声。毛先の赤くなった黒髪。冬でも小麦色だった頬。鉄と塩の味の指。泣きわめいたあとの少しくぐもった鼻歌。
もうどこにもない海を、僕は還る日まで探し続けるだろう。
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