桜の季節は静かに眠りたい

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「なぜって……」桜の声にうんざりしてるから、と言ったところで信じてもらえないのはわかっていた。「桜の大人しそうに見えて自己主張が激しいところが生理的に受け入れがたいんだ」  しどろもどろで遠回しに桜の苦手なところを言う。伝わらないだろうことは承知で。 「わかります!」  いきなり両手をつかまれる。 「うわっ!」 「私も苦手なので! 憎んですらいます」 「そうなんだ……」  ぐぐぐと僕の手を握る彼女の手に力がこもる。 「私、あなたとまた会えたら声をかけようと思ってたんです。だって、桜を嫌いな人はほとんどいないでしょう? これほど愛されてる花はないですよ。だから、私はあなたの言葉を聞いてほっとしたんです。心の底から」 「そこまで?」 「私、梅っていう名前なんです。ウメ。なんだかおばあちゃんみたいな名前ですよね。いえ、答えなくていいですよ。わかってるんで」 「もしかして、名前が梅だから、桜が嫌いなの?」 「まあ……そうですね、名前は一因ですね。実は、姉の名前が桜なんですよ。すごく優秀な人で、いつも私は比べられて両親、とくに母に溜め息を吐かれるわけです。ああしろこうしろっていつも厳しく言われて……ピアノだって本当はやりたくなかった。姉は私服の進学校でのびのびしているのに。どうしたって、梅は桜に敵わない」 「それはキミの思い込みでは。清蘭は県内の女子高では一番だし、憧れてる女子は多いと思うよ。それに、キミはすごくかわいい」  僕の奇行を見ても受け入れて話しかけてくれるし、僕なんかよりよほど人間ができているのではないか。  目の前の女子――梅は唐突に笑い出した。 「ずるいですね。天然人たらし、ってやつですか? 桜は私にとって、幼い頃からの真剣な、頭がおかしくなりそうなほどの悩みだというのに」 「なんかごめん」 「いえ、私こそ自分の話ばかりでごめんなさい」梅はつづけた。「あなたも何かもやもやした思いがあるなら、私でよければ相談に乗りますよ」 「ありがとう。でも、僕は……相談することはないかな」  ふと、桜が話していたのは僕のことではないかと思えてきた。 ――まだ若いのに思い込みで暴走してしまうのか……相談相手がいればまた別なんだろうけども。  僕は思い込みだけでこんな場所まで来てぼうっとしている。 「では、どうしてこんなところに一人でいるんですか?」 「ところで、キミは休日なのに制服を着てるんだね。学校の行事でもあったの?」  話題を変えるために問いに答える代わりにたずねた。 「ああ、これ……」梅はくすっと笑った。「制服はただのカモフラージュです」  なぜ笑うんだろう。 「カモフラージュ? 清蘭の生徒ではないってこと?」 「いえ。ちゃんと清蘭の生徒ですよ。ただ、この制服を着ていると、無害で清楚な優しい女子だと思うでしょう? たとえば私が今、ナイフを隠し持っていて、弱っている人を狙ってるなんて誰も思わない」 「冗談でしょ」  唇は笑みのかたちになっているのに、梅の顔は不思議と表情がないように見えた。 「もちろん、冗談です」梅は少しだけ首を傾げた。「あなたを川へ突き落としたらどうなるだろうなんて考えていません」 「これも冗談?」 「はい。薄暗い心を隠すのにちょうどいいんです。この制服」  僕は斜面を上がり、橋へ向かう道へ出た。梅へ背中を向けた時、ナイフで刺される想像を一瞬してしまったが、そんなことはもちろん起きなかった。  梅を見下ろす。 「桜が散ったらまた会えないかな。その時にまた話を聞くよ」  ここで僕は自分の名前を告げた。 「わかりました。私も見かけたら声をかけますね。たとえば、ここで、土曜の午後に?」 「だね」  あえて連絡先は交換しない。少しだけ面白い気分になって僕たちは別れた。  楽しみができて、桜の季節も悪くないように思えた――  のに。  その後、梅と会うことは二度となかった。  桜が散る頃、隣の市で十代の姉妹のいたましく凄惨な事件が起きた。  神崎桜(十八)が憎しみから神崎梅(十六)を殺害したのだ。  ネットニュースの記事で姉の桜の次のような話を読んだ。 『いつも私だけ家族に存在を無視され、妹だけ愛されてかまわれていた。妹がいるだけでおかしくなりそうだった。  ピアノを習いたかった。でも、月謝が高いという理由で叶わなかったのに、母は妹には積極的にピアノを習わせた。  また、ある女子高の制服に憧れがあった。でも、私立は駄目だと断られたのに、妹には通わせた。妹がいつも見せつけるようにその制服を着ているのも腹立たしかった。』  桜の季節が終わったというのに、僕はまだ眠れずにいた。
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