桜の季節は静かに眠りたい

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桜の季節は静かに眠りたい

 桜の季節になるたびに寝不足になる。というのも、桜のやつはひっきりなしにおしゃべりするからだ。  こんなことを言うと頭がおかしいと思われるので、自分でも心配になってとっくに医者にかかって診察済みだ。身体のどこにも問題はない。耳にも、頭にも。  桜はしゃべる。  これは事実だ。今は亡きおじいちゃんも言っていた。桜はしゃべると。  物心がついた時にはしゃべっていた。 「やかましい!」  叫ぶと桜は一瞬静かになるが、僕をやれやれと子供扱いでもしているのか、すぐにかすかな笑い声とともにどよどよと話し出す。気持ちのいい土曜の午後くらいまどろんでいたいのに、そんなこともできない。  たとえば雨音や街の雑踏の音は一種の癒やしの効果があると聞く。心穏やかになって眠りにつきやすくなったり、勉強などで集中しやすくなったり……。  桜のおしゃべりも遠くのざわめきのようなものだったらよかったのに、意外にも一つの声がはっきりと聞こえる。親族の集まりのような……ざわつきもあるが、ふっと意味のある言葉が耳に降りてくるのだ。これが非常に厄介で、苦手だ。不意打ちは防ぎようがない。ぎくっとして心臓が痛くなる。しかも、地域に暮らす人々の知りたくもない噂話が主なので憂鬱だ。この身近な誰かに対するひそひそ話は、より耳にこびりつく。  僕が聞いたのは、こんなことだ。 ――あの家にやっとお嫁さんが来たと思ったら、お嫁さんは犬が嫌いで出て行ってしまった。無類の犬好きの老夫婦は家より大きな庭に大きな尖った耳の犬を三匹自由にさせていて、それが唯一の楽しみだというのに。 ――あんなに明るかった人が病の痛みで別人のようになってしまった。 ――あの若い夫婦はついに別々に暮らすんだって。母親は小さい弟の方だけをつれていくそうだよ。  こんなことは聞きたくないんだ。  やめてくれ、と叫んだことは何度もある。でも、全然聞いてくれない。とても一方的だ。  桜が咲いて散るまでのおよそ一週間はこれがずっとつづく。残念ながら家の庭には立派な桜が生えているし、家の前にも桜並木がある。逃げようがない。穏やかな睡眠も阻害される。地獄だ。  ちなみに、母親が小さい弟だけつれて出て行ったのは、僕の身の上に起きた本当のことだ。たしかに「桜の声が聞こえる」とか「桜がしゃべるから眠れない」などと言う子供はブキミで嫌だろう。母には桜の声は聞こえなかったし、僕の行かないで、という声も届かなかった。  何より、桜の言葉がなんだか予言めいているのが気味が悪かった。桜がその話をするまでは、僕には父も母もごく普通の何のほころびもない夫婦に見えていたから。子供たちの前ではつとめて夫婦を演じていただけかもしれないが……。  ただ、その時点でなんともなかったことが、桜という人ではないものの言葉で確定されてしまったようにも思えてゾッとしてしまう。  だから、嫌いだ。  桜も、桜の季節も。  子供だった僕の胸のうちがしんと冷えた思い出がある限り、僕は桜と関わりたくない。  桜の声が聞こえるのは僕とおじいちゃんだけで、「遺伝ね~」と呑気におばあちゃんに言われたが、もしそうなら嫌な遺伝だ。こんなのはない方がいい。  おじいちゃんは桜の木ぎれを使って女性物の小物をつくるのが得意だったようで、注文が絶えなかったそうだ。そのせいで桜に恨みを買ったのかもなと生前に笑いながら言っていたけど、桜材を使う職人はたくさんいるし、他にも桜から恨みを持たれる人はいるんじゃないだろうか。でも、そんな話は聞かない。桜じゃなく、桜に憑く虫の声かも、という説もおじいちゃんから聞いた。どちらもカンベン願いたい。  油断したのは、畳みの上に仰向けになり、春らしい陽気にうとうととしてようやく眠れると思った時だった。  唐突に桜の声がすぐ耳の傍らをかすめるように降ってきた。 ――まだ若いのに思い込みで暴走してしまうのか……相談相手がいればまた別なんだろうけども。人生棒にふるのは早いと思うな。人間はすぐ命を軽く見る。どうにか耐えてくれればいいか……。  それを僕に聞かせてどうするつもりだ。まるでこれから何か起きるから止めろと言われているようで腹が立つ。  人生を棒にふる……この言葉はかつてよく知る人間に使われた。近所のお兄さんだ。ある日、お兄さんの家の前に鯨幕が張られた。亡くなったのだ。まだ高校生くらいの優しいお兄さんだったのに、急にいなくなってしまった。僕が幼稚園児の頃のことだけど、やけに覚えている。  そんなことがあったから、ピンときた。同じくらいの年頃の誰かが命を絶つのではないかと。  でも、腕力もごくごく普通の高二の僕に一体何ができるというんだ? 相手をなだめすかすような話術もなければ、信頼できる肩書きもない。  だいたい、命を絶つなんて、僕の妄想かもしれない。
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