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「おしくない。後輩ちゃん、正解だよ」
「そう?別に好きな人がいるからじゃないし。彼氏からいい化粧品を貰ったからだよ」
「恋愛の影響には変わりないだろ」
龍斗はテーブルの上に湯呑みを置いた。香ばしい香りが漂った。黒い光沢のある器に天の川のように銀色の輝きが散りばめられている。龍斗が一目惚れした湯呑みは滑らかな肌触りがあり、ほのかに温かさが伝わってくる。
「ありがとう」
「どうも」
彼はまたキッチンに戻った。部屋の中はテレビも付いておらず、私たちの生活音だけがしている。キッチンの方からまた皿が当たる音と包装を開ける音が聞こえいる。しばらくして戻ってきた手には鶯色の和菓子があった。
丸とは違う楕円が崩れたような先に、黒い胡麻が乗っている。鶯のつぶらな瞳が和菓子を愛らしくしていた。
「可愛い」
「うん。好きそうだと思ったから」
「……ありがとう」
私は少し唇を立てて、湯呑みに口をつけた。香ばしい香りに包まれ、旨みが身体を満たす。
「美味しい」
「ライブで行った時に飲んで美味しかったから。葵に飲んでほしくて買ってきた」
「……ありがとう」
「別にいいよ」
彼は頬にかかった髪を撫でて、優しく微笑んだ。生活はあまり変わらないけれど、変わったのは確かにある。
「甘い」
「まだ鶯餅も食べてないのに?」
「龍斗が」
「そりゃ恋人には甘くなるよ。好きだから」
「う……そういうところだよ」
「照れたな。耳が赤い」
私の耳に触れると、悪戯っ子のように口角を上げた。龍斗が優しい言葉をかけてくるようになり、よく甘やかしてくるのだ。慣れていない私はすぐに動揺してしまう。私は髪で耳を隠した。
「これは、ほうじ茶であったまったから」
「ふっ、かわいいよ」
彼の目は私に向けられている。顔にまで熱が上がってきた。赤くなっているであろう頬に彼の指が触れる。
「甘やかして愛を伝えるって決めたんだ。葵にまた逃げられたくないから」
「……また言ってる。付き合ってる……んだから逃げないよ」
「熱愛報道が出ても?」
「それは……出さないで」
モデルやアイドル、女優。みんな綺麗で可愛い。厳しい芸能界で生き残る強さも持っている。『そんな人と争えない』と身を引く可能性は否定できなかった。
「努力する。でも報道が出ても嘘だと分かって欲しい。だから俺は葵に気持ちを伝え続けるよ」
「ありがとう」
「お礼を言われることじゃない。甘やかしたいのは俺の希望だから。あ、ついでに一つ言ってもいい?」
「いいよ」
彼は私の家の鍵をどこからか出した。
「推し活やめない?」
「やめない」
バッサリと切り捨てて、私は鶯餅を見つめた。愛らしい瞳に見つめ返されると食べる気力が失われつつある。
「俺の不安も払拭して欲しいなぁ」
「一生会わないアイドルは二次元と一緒だよ。彼氏とは別世界」
「俺にとっては同じ世界なんだよな。それに人気アイドルとこの世界で出会ったんだ。あいつらとも会うかも知らない」
私は小さく息を吐いた。最近よく推しについて言及される。龍斗と出会う前から推しているのだから、今更気持ちを無理に変えることはできない。微かに眉を下げている龍斗に向き合った。
「出会おうが出会わなかろうが推しは推し。恋人と違う。不安になるのも一緒にいて落ち着くのも相手が彼氏だから。……龍斗のこと愛してるから」
『安心して』と続くはずだった言葉は龍斗に絡め取られた。唇を離すと嬉しそうな笑顔が目に入り、私も微笑む。この胸に感じる温もりはほうじ茶のせいではなかった。彼との穏やかな時間は続く。その幸せを2人ともが感じていた。
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