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第12話 どす黒い怒り
(なっちゃん、どうしたの?)
(なにがあった、なっちゃん)
すばるは胸の中で繰り返し姉を呼んだ。
だが、さっきの激しいヴィジョンがまるで嘘だったかのように、姿見の鏡面は平和に静まり返っていた。七瀬も赤岩もいない。文字どおり消えてしまった。
いや、正確にはごく細く、七瀬とつながっている感覚は残っている。
ふだん彼女のあらわれる際に感じる息遣いみたいな気配。これがまだ、かすかに伝わってきている。すぐそばにいなくても、大声を出せば届くところに姉は滞留しているはずだ。たぶん。
さらに七瀬の気配をさぐっていたすばるだったが、一転して(なんだこれ)と感じた。
ようやくぼんやり伝わってきたのは、「不機嫌」のフィーリングだった。自由に動けず、ムッとしているような負の気分。なんなんだろう、これは。すばるは困惑した。
もう一度、穴が開くほど姿見をにらんだ。残念ながら、いくら見つめても七瀬の姿はなかった。こっちを見ているのは竹刀を手にしたすばる自身だけ。
(ひどい顔してるな…)と思った。そこに浮かんでいるのは、主に「焦り」だった。
まだ十代のすばるだけれど、「焦りこそ最強の敵」なのは剣道を通じて身に染みて知っている。写真だって勉強だって、たぶんそうだろうと思う。今もそう。
とりあえず落ち着け、と鏡の中の自分に言い聞かせ、呼吸を整えた。動揺をしずめ、できる限り冷静に状況を検討せねばならない。
車中らしき場所で喚いていたのは赤岩先生で間違いなさそうだ。
真っ赤な顔をした彼女は、近くにいるらしい誰かを懸命にかきくどいていたが、隙を見て何かをつかんだ手を突き出した。そのとたん電源が落ちたみたいに鏡像は消えた。
ここから推測すると、七瀬はひとまず車へと移動し、先生と二人きりになるのには成功した。おそらく、運転席から見える鏡に出現したのだろう。ところが、そこで思わぬ反撃をくらってしまった。
赤岩先生が霊を怖れているのは噂どおりだった。
だが、苦手なりに彼女は前もって対抗策を準備していた。そして、幽霊つまり七瀬の出現に気づくと、それを遠慮なくぶつけてきたのだと思われた。
やはり大した女だ。認めたくないが、すばるたちよりも喧嘩は上手い。そして、彼女の性格、とりわけ強い攻撃性を知りながら、大した策もなく不用意に突撃したすばるたちこそ、相手を甘く見すぎていたのだ。
(まさしくこれが「油断」ってやつだよな)
舌打ちする彼女の耳に、
「…すばるちゃん、あーゆーおけ?」と声が届いた。吉村晶子だった。
「別に顔には何もついてないし、ポロリもチラリもないよ…。すばるちゃんはセクシー担当じゃないしね」と笑いかけた。すばるが怖い顔で鏡をにらんでいたからだろう。
セクシー云々とは、以前に彼女らとした雑談の続きだった。剣道人気をどう盛り上げるかについて議論となり、ちょうど胸元を強調した衣装の女剣士が出てくるマンガが話題になっていたのもあり、「セクシー剣道」はどうかと笑い合ったのだ。
とりあえず、すばるは笑みを返した。ぎこちないのは仕方ない。
–––– いや、思い切って頼んでみよう。
「すんません。ほんのちょっと、1分だけ時間をください。迷ってることがあって」
そうすばるが言えば、打てば響くように吉村夫が、
「こちらこそすまん!」と、拝むように片手を上げた。
彼は、ここへきてすばるがオーバーヒートしたと見ているようだった。
「おれたちが調子に乗って詰め込みすぎた。悪かった」と謝ると、再度の休憩を宣言した。生徒たちには、
「みんなも、もういちどクールダウンしよう。水とか飲んでいいから」と語りかけ、いったんその場に腰をおろさせた。
フロアの端まで歩くと、すばるはその場で軽く目を閉じた。あと少しだけ事態を精査しよう。
赤岩先生が手に持っていたのは、
(たぶん御守り。今風にいえば呪物)に違いない。
彼女がバッグに下げたマスコットも、なんらかの御守りだったと考えられる。旅行好きだと聞くから、各地から集めてきたのかもしれない。
ただ、そんなものが役にたつとは考えもしなかったし、七瀬だって特に警戒してはいなかった。いや、開運や交通安全ならともかく、幽霊封じの御守りとかありえねえだろうと思う気持ちは今でもあるけれど、
(でも、謙作さんにはそれが使えたんだ)と、すばるは考えた。
謙作さんは、気の毒な霊を宥めたり、あるいは暴れる怨霊をおさめたとされる。具体的な方法は聞いていないが、助けられたと称するひとはたしかにいた。
また、彼の遺したカメラに不思議な力があるというのは、ほかならぬ七瀬からの情報である。冗談半分に、「私に向けるな」とも言っていた。
ということは、少なくとも七瀬のような存在に干渉し、ついには封じてしまえる道具があってもおかしくはない。
赤岩先生に謙作さんと同じレベルで幽霊退治ができるとは思えない。が、霊に影響を与え得る本物の呪物が実在して、たまたまそれが彼女の手に渡っていたとしたら…。
そういえば、鏡の中の赤岩先生は、「自分は悪くはない、仕方なかった」「頼むからどこかへ行ってくれ」などと口走った。
仕方なかったなんて、よく図々しく言えたもんだと感心もしたのだが、あれはすなわち、お祓いのためのフェイントだったのだろうか。
しかし、ふざけた言い草なのには変わりない。果南ちゃんへさんざんひどいことをやらかしておいて、すべて自分の責任ではないと主張できるとは、その神経のず太さに呆れる。恥知らずもいい加減にせえよ。
…などと罵ったすばるだったが、ふと、
(あっ、そういうことか)と思い至り、すとんと腑に落ちた気がした。
赤岩先生は、別に七瀬の襲撃を予期していたのではない。また、彼女と知った上で祓おうとしたのでもなく、果南ちゃんに関わりがあるとは今も気づいてないかもしれない。
彼女は、バックミラーに映った女子高生風の幽霊を、自分のかつての教え子だと勘違いしたのだ。これまでにも望まぬ訪問を受けた経験のあった可能性だってある。
あくまで推測にすぎないが、先生は人違いならぬ幽霊違いをしたままま呪物を振りかざした。その結果、決して怨霊などではない七瀬と二人、身動きのとれない状況に陥ってしまった –––– ということではないか。こんな感じに組み立てると、なんとか事態が了解できた…気がする。
とはいえ、七瀬をレスキューする手段が見つかったわけではない。
それに、すぐにでも車へ行きたいが、当の七瀬は「絶対に来るな」と強く戒めた。その理由がわからない。
無理に救出を図り、七瀬が本当に祓われる事態となってしまったら元も子もない。
(イヤイヤイヤ、そりゃ困る)すばるは首をぶるぶると横に振った。そんな事態だけは避けたい。でも、どうすればいい?
すばるは体育館の窓から暗い駐車場をすかし見た。
赤岩の車は依然、暗闇にじっとうずくまったまま動きだす様子はなかった。
まっとう?な幽霊と呪物がぶつかりあって、互いに身動きがとれなくなっているとの推測は、もしかして案外正しいのかもと思えてきた。
「なっちゃんさあ…冗談はやめてよね」すばるはつぶやいた。両すくみとかギャグでしかない。
しかし、苦笑しかけた彼女の胸にふつふつと湧き上がってきたのは、自分でも思いもよらない激しい怒りだった。
(果南ちゃんにあんなことをしておいて、まだ自分は無事でいようと思ってるんだ。おまけになっちゃんも。っくそ、ふざけやがって)
瞬間、抑えきれないほどの怒りがすばるの全身をかけめぐった。先日から蓄積した赤岩への負の感情が、一挙に吹き出してしまったようだ。
(とにかく奴を車から引きずりだす。そしてなっちゃんを救う。そのあとは…)
手に持ったままの竹刀を握りしめた。たとえ竹刀であれ、すばるが本気で叩きつけたら、ウインドーガラスぐらい粉砕できるに違いない。
すばるは獲物を狙う獣じみた冷静さで手はずを考えた。体育館の裏まで駆けてゆき、窓を叩き割る。そして赤岩のお守りを手から弾き飛ばし、車から引き摺り下ろして七瀬を救い出す。
よし。すばるの唇が歪んだ。
もとより奴は悪人。私にこそ理はある。そう考えると、いくらでも残虐な力が湧いてくる。
(なっちゃん、もう少しだ。いまから行く)
(ちょっと騒がしくなるけどね)
心の中に噴き上がったどす黒い怒りの炎に、すばるは身を委ねようとした。
(目にものみせてやる)
怒りに急き立てられ、顔を上げた彼女の耳に声が聞こえた。
小さくかぼそく、しかし心から彼女を気遣う声。
それはこうささやいていた。
「せんぱい、気分とか大丈夫ですか?」
森本佳奈だった。
気遣わしげにすばるの顔を見つめる。さっきからの厳しい表情に、体調不良ではないかと心配しているのだ。
となりに、さらに小柄な姿があった。神谷少女だった。彼女もまた不安げにすばるをのぞきこんでいる。その後ろには大槻少年までいた。凛々しい顔が泣きそうに歪んでいる。自分がすばるの不調を招いたのではと心配しているのだ。
なーに一人で悩んじゃってるの、勘違いだよ。そう口に出そうとしてすばるは、
「ばかじゃね?」
とつぶやいた。
子供たちに対してではない。自分にだ。
(あたし、いったい、なにしてんだ)
(あの子らは一生懸命、人を心配してくれている。なのに私はてめえのことばっかり)
あれほど暴れ狂った黒い怒りが、いつの間にか消えていた。
代わりに、鈍い悲しみが彼女の胸の内に広がった。
「ごめんごめん、大丈夫だよ」
さも平気そうに言うと、子供たちはおずおずと近づいてきた。
(こんな小さな子らに心配かけて何してんだあたし。しっかりしろ、マヌケ)
「ほんとうですか」ぎこちなく佳奈が言った。「あっ、お水あります。新品です」
「ありがとう、いいよ。ほんとほんと。この通り。疲れたとかじゃないんだ」
泣きそうになるのを堪え、どうにかニカっと笑うのに成功した。子供らも笑顔になった。
「稽古つづけるから。もう少しだけ待って」
そう言うと、安心したように子供らはうなずいた。しかし、次にどうすれば良いかわからない。
その時、すばるは首筋に風を感じた。
もちろん体育館の中であり、窓は閉められたままだ。
「ち、ちょっと私、お手洗いに行ってくるわ」
そうしろと言われた気がして、すばるは足早に手洗いへと向かう。
目指すは前回入りそこねた職員トイレ。今回は誰もついてこなかった。
ドア前に立つとかすかに緊張した。押し開いてくぐると自動的に照明が点いた。
だれもいない。
職員用トイレは、一般向けのそれより全体に小ぶりだった。違いはほぼそれのみ。「教職員専用」とかの刺繍入りカバーもなければ、香料入りダブルのトイレットペーパーも使ってない。一般用より全体に新しく感じるのは、単純に使用頻度が低いためなのだろう。
洗面台の鏡の前に立つ。
頭に手拭いをかぶったすばるが、すばるを見つめている。
「ねえ、なっちゃん。どこいったの?」
さっきの風は姉ではなかったのだろうか。
鏡の中の情けない顔の自分がおかしくて、
「Mirror,mirror,on the wall」と呼びかけてみた。この世で一番・なわけないけど姉妹で最も見目よかった姉はどこにいった?
すばるがまだ小さい時、七瀬は気まぐれに本を読んでくれたりした。最初は白雪姫みたいな定番、そのうちアルセーヌ・ルパンとかシャーロック・ホームズばかりになった。彼女が冒険・ミステリー好きなのはそのころからだ。実は次姉は朗読がなかなか巧みだった。声も良く、セリフの読み上げも母や他の姉よりずっと自然で上手だと感じた。外見的にも申し分なかったから、もし生きていたら美人声優として人気者になれたのではと思ったりする。
七瀬は将来、何になりたかったのだろう。そんなことを語り合った記憶はなかった。
「ねえ、なっちゃん。演劇の世界とか、行く気はなかった?」
と鏡に聞いた。なにも返事はない。
姉の気配は、まだかすかに感じていた。しかし、それだけだ。
どうしてこんなことになったのだろう。
生々しい感情が湧き上がり、すばるはひんやりとした洗面台に手をついて頭を垂れた。
(私のせい?きっとそうだ)
目に熱いものが溢れようとしたそのとき、脳裏に誰かの意識が閃いた。
–––– 悲しむことはない。顔をあげなさい。
(えっ)
もちろん七瀬ではなかった。はるか歳上のように感じる意識。
すばるは目を見開いた。
(えっ)また、驚いた。
普段なら、さっき話しかけたのは誰の意識かを追求するところなのに、すばるは鏡像の変化にすっかり気を奪われていた。
目の前で稽古着姿の自分がじわじわ変化をはじめていた。形を成しつつある人像は、どうみても制服を着た女子だ。
「なっちゃん?」思わず声が弾んだ。「もう。なんだよ。心配したんだよ」
だがすぐに、(ちがう)と感じた。制服は七瀬のそれと似ているが明らかに別物、それどころか少女からは人ではありえない鬼気めいた気配すら吹きつけてくる。これは絶対に幽霊、それも…。
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