午前 2

1/1
前へ
/21ページ
次へ

午前 2

彼女は一呼吸置いた。そしてまたメロンソーダを啜る。細い指先で軽くストローでグラスをかき混ぜる。多分、ほとんど無意識に。氷が微かに音をたてる。カチリとかカチンとかそういう音。 「しかもね、彼女は最初になんて言ったと思う?彼女が来たとわかった瞬間から、わたしの脳はちゃんとアルマジロになるべしって警報を発してたし、そもそも彼女が最初に見舞いに来たがってるらしいって人づてに聞いた時から、心の準備はできてたはずなのよ。それでも駄目だった。なすすべなし。彼女の放つ言葉にはいつも随分嫌な思いさせられてきたんだけど、さすがに病室では人並みに振る舞ってくれるかもしれないって心のどこかで思っていたのかもしれないし、そもそもあの時は全身麻酔の後でとてもだるかったの。うまくアルマジロになりきれてなかったと思う。とにかく、最初の一言からしてもう無理だった。びっくりするかもしれないけど、わたしはあの時萎縮してたの。大人がピリピリしてるのを察知したときの幼い頃の気持ちみたいになってた。おどおどといってもいい。想像つかないでしょうけど、わたしはすっかり幼い自分に戻っていて、大人の暴力、それはほとんどトゲトゲした言葉や雰囲気での支配による暴力のことなんだけど、それにすっかり怯えてどうしていいかわからなくなっている無防備な気分だったわ。まともな機転もきかず、脳がね、すっかり閉じきってたの」 「ねえ、これはわたしだけなのかな。図体だけ大きくなって分別がついてるように振る舞ってみてはいるんだけど全部物真似みたいなもので、実際のわたしは10歳くらいの頃から何一つ変わってないのよ。いつもそう感じてるわ。きっと60歳になっても70歳になってもずっと10歳の頃のわたしのままで変われないんじゃないかと思う。いつまでたっても分別もつかないし大人になるってどういうことかわからなくて、他の同世代の人たちが大人っぽく賢そうに振る舞うのを真似してみて、おかしくないように人並みにみえるように大人のふりをしてる、そして、たまに虚しくなる。飾ってるだけなのよ。内心のわたしはずっと変われないでいるの、多分、わたしだけ取り残されちゃったのかもしれない。たまにそれに気付かされて孤独でやりきれない気持ちになる。取り残されるほど心細いものはないでしょ?」 「そうよ、本当なの。だからあんなに言われたい放題だったのかもしれない。不条理に叱られてると気づいてはいるのに何一ついい返せない子供のように。あの後、何度あの日のことを思い出して、ああ切り返せばよかった、こう言い返せばよかったと思い浮かぶ残像に苦しめられたか。それがまた苦行だったわ。思い出したくないその1時間を何度も思い返して、出来もしないタイムスリップを1人で夢想するの。それは全くする甲斐がない作業で、しかも楽しくはないの。あの対面は完全に彼女の圧勝でわたしは惨めな敗北だったし、それを心の中でやり過ごすことも忘れ去ることもできないわけだから二重にも三重にも負けたようなものなのに何度も何度も追体験するんだから、馬鹿みたい。でもやめられないの。どうしてわたしはこんなに『記憶』に苦しめられるんだろうって不思議なの。わたしって人間は記憶の集合体なんじゃないかしら。えっ?それってみんな知ってる当たり前の事実だったの?そんな認識してなかったのに考え直さないとだめね。わたしはわたしだと思ってた。でもわたしは確かに記憶の集合体に過ぎないのかもしれない。過去の記憶の収納庫。記憶にも、消したい思い出だけじゃなくてどうでもいい思い出もあるはずだけど、どうでもいい思い出は薄れていくのに、消したい思い出はその消したいという思いの強さのせいでかえって消されずに残ってしまう。皮肉なことね。消したい思い出こそ残ってしまうなら、けして消したくない思い出はどうなっていくのかしら。消したくないという思いの強さのおかげで、こちらも色濃く残ってくれるのかしら」
/21ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加