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昼間 4
「それで思い出したの、みさきがあの日に同じようなことを言ったってこと。みさきがしばらく一人で座り込んで砂浜からただ海を眺めていたから、どうしたの?何を見てるの?って聞いたら、彼女、この日のこの海をよく覚えておきたいんだって言うの。だからわたしは聞いたの。『こんななんでもない風景を覚えておきたいの?それってそんなに大事?』って。そしたら彼女、こう言ったの。『何を言ってるの?それがすべてじゃない。きっといつかわかるわ』。そしてわたしをまっすぐ見て微笑んだ。彼女はやっぱりとってもきれいだったわ。そう、彼女はあの鄙びた海水浴場で間違いなく一番賢くてきれいだった。とにかく輝いてた。そしてそのことを自分でもよく理解していた。彼女は正しかった。わたしはやっぱりこうしてあの日の彼女のことちゃんと覚えていているのだし、心のどこかを占めているといってもいい。井上くんなんてもっとあの日が彼の心を今でもしっかり占めてるわけでしょ。記憶してること、覚えておくことは、すべてなのかわからないけど、でもやっぱりすべてに近いんじゃないのかな、きっと」
「そういう意味でも彼女はなんというかわたしにとってはとっても記憶に残る子だった。とにかく彼女とは人種が違うって思わされたのよ。わたしがあの日の彼女のことをこんなによく覚えているのはそのせいだったと思う。世の中には二通りの人種がいるんじゃないかって痛感したの。みさきみたいに、すべてのことを自然に思いのままに振る舞える人と、わたしのように、感情じゃなくて頭で考えすぎてしまって、怯えた自分を隠そうとしてどこか無理をしてる自分をまた別の自分が客観的に眺めてる感じの人間と、二通りいるんだって、なんだかあの日、強く意識したのを覚えてる。あの日だって、誘われたその瞬間からその何が楽しいのかイメージできなくて、なんとか自分を奮い立たせて、大学一年生の夏を楽しんでる風に振る舞わないとって、どこかでそんな愚かしいことを考えてる自分がいて、その自分にドン引きしてる自分がいたのよね。でも、きっとみさきみたいなタイプの子は、そんな馬鹿なこと考えずに気楽に振る舞ってたんだと思う。肩に力がはいってないんだもの。あの気まぐれな態度のあれこれだって作為的じゃなかった。作為的だったらきっと嫌味に感じたと思う。嫌な気はしなかった。困惑はしたのだけど。ほら、たとえば、池の中に飛び石が敷いてあってそこを渡る時、何も考えずにすいっと渡るほうがいいことがほとんどなのよ、もちろんそんなに危なっかしくない場合ね。でもわたしの場合だと、いざ渡ろうと考えた時、三人くらいのわたしが頭の中で騒ぐの。あの苔っぽい緑がかった隅のところを踏んだら滑るぞ、とか勢いをつけると危ないぞ、気をつけろ、気をつけろってね。だから片足を出す時にすでにどこか力んで硬くなってしまう。だって、うまく渡れず水にはまってる姿すら思い浮かべてしまったりするんだもの。怖くなっちゃうでしょ?本当は考えすぎないほうがいいことなのに、すっと渡れば簡単なことなのに。そういう簡単なことがいつまでたってもできないの。それは今でもずっとそう。どうなんだろう、わたしが勝手にみさきはすいすいって考えずに振る舞ってるように思い込んでるだけなのかな。傍から見たら勝手にそう思ってるだけで、実は違うのかもしれないんだけど。二通りいるっていうのは思い込みなのかな、そう見せてる人がいるだけでみんな実は同じなのかもしれないのよね。でも、わたしはあの日、どこか考えてばかりで自然に楽しめない自分をすごく意識していたのは確かで、それをよく覚えてる。そして、それは別にその日に限ってだけじゃないの。よくあることで、だから無駄に疲れてしまう。考えずに振る舞ってる人をとにかく羨んでしまうんだけど、でも実際はそんなわけじゃないなら、ただのみっともないないものねだりよね、そうなのかもしれない」
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