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風の出てきた夕方のことである。
大晦日の商店街で、そもそも出歩いている人はそういない。大体どの家でも大掃除を済ませ、年越しそばの準備をし、おせちを作ったり取り寄せたり、あとは紅白と裏番組のどちらを観るかでひと悶着しているような時間帯だ。
柘植ノ木珈琲館の扉に掛かっている営業中の案内札を確かめると、一人の中年女性が店内に入ってきた。
「まだやってるかしら。相変わらず誰も居ないわね」
この女性もまた、店の常連であるらしい。彼女は暖かさを求めて、四人掛けのソファー席を選んで座った。
持っていたエコバッグの中から一通の封筒、そして古びた万年筆を取り出しテーブルに置くと、ふう、と溜息を吐く。
「前島さん、寒くないですか? 今暖房少し強めにしました」
「ありがと須崎さん。モカお願い」
「かしこまりました」
またいつの間にか現れて、客のための用意をし始める主人である。前島さん、と声を掛けられた女性はそんな不思議な主人を気にする素振りもなく、温かいおしぼりで手を拭き、ひと口水を飲むと、よっこらしょと立ち上がった。
「あら、新しい本が入荷したのね」
「はい、何冊か」
「そう言えば、大晦日だってのに、お店開けてるの?」
「まあ独り身ですし、やることもないですし」
「独り身。ね、須崎さん、一人って楽? 大変?」
カウンター脇の本棚から文庫本を物色しながら、女性は主人に問い掛ける。
「ううん、大変と言えば大変ですが、やっぱり一人の気楽さには敵わないですね」
「そう、そうよね」
女性は決めた一冊を手に取って席に戻る。同時に湯気の立った珈琲がテーブルに置かれた。
「ですので、時間は気にせずゆっくりお過ごし下さい」
「ありがとね」
女性はまず珈琲を慎重に啜り、ほっとしたような表情を浮かべたあと、エコバッグから取り出した眼鏡型ルーペを掛けて本のページを開いた。
目の高さへ掲げた本を両手で支え、数ページ読んではスピンと呼ばれる栞紐を挟む。カップもこれまた両手で包み持ち、香りと味を堪能したのち、再び本に戻るといった調子でゆっくりと時間は過ぎて行った。
カチコチ、と古い柱時計の秒針が店内に響いている。
ふと、女性がテーブルに置いた万年筆が動き出した。気配を察知した主人が、万年筆の動きをカウンターの中からちらりと伺う。女性は本に夢中で、自分の持ってきた万年筆が消えてしまっていることに気付かない。
主人は、ポットを持って女性の席へと赴いた。
「前島さん、今日はサービス。お代わりどうぞ」
「やだお金取らないの? いいの? ありがとう」
無料には滅法弱いと見た。淹れたての香りにつられて再び本の世界へ没頭する。本の題名は「さても楽しきおひとり様」。もうそろそろ、あなたの出番ですよ。
カップが空になる頃、よし、と口に出して言うと、女性はパタンと本を閉じてテーブルに置いた。そして置きっぱなしだった封筒の中から、離婚届と書いてある一枚の紙を取り出すと、おもむろに万年筆を手にした。
「さてと。年明けは暫くバタバタして来られないかも。落ち着いたらまた来るわね」
「いつでもどうぞ。営業しているかどうかは私の気まぐれですが」
「知ってるわよ。だけど、私が柘植ノ木珈琲館に行きたいな、と思った時は必ず営業してるもの」
「ならば良かったです。よいお年……、あ」
「いいわよ、よいお年で。来年はよいお年になるんだから、絶対」
「そうですね。よいお年を」
「よいお年を」
女性は晴れやかな笑顔で、年の瀬の商店街を歩き始めた。
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