柘植ノ木珈琲館の物ノ怪主人は今日も居ない

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 夜の帳が下りる頃。  柘植ノ木珈琲館には、橙色のぼんやりとした灯が点っていた。中に一人、客が居るらしい。あと数時間で一年が終わるというのに、一体どんな客なのだろうか。  老齢の男性客である。足が悪いのだろうか、四人掛けソファー席の横に杖が引っ掛けられている。  珍しく主人がスタンバイしていた。サイフォンではなくネルドリップで落とすタイプの珈琲が出来上がったようだ。かなり色の濃い液体を、その男性がいつも使っているのであろうカップに注いで、テーブルへ運ぶ。 「福留先生、バラコです」  先生と呼ばれた老人は、嬉しそうに黒い液体から立ちのぼる香りを嗅いだ。 「いいねえ。バラコで年越しが出来るなんて、贅沢だ」 「奥様の分も、こちらへ置いておきますね」 「悪いね、須崎君」 「いいえ。ごゆっくりどうぞ」  老人の目の前には、一冊の文庫本が置かれていた。伏せてあるので、題名は見えない。辛うじて裏表紙に書かれた内容紹介から、「福留朝次」の著であることが分かる。つまり、この老人が書いたものなのだろう。それならば先生と呼ばれるのにも理由がつく。この老人は、小説家であった。  だが老人は、その本を開こうとはしない。誰も座っていない向かいの席を時折気にしながら、主人に淹れてもらった珈琲を味わうばかりだ。  時計は、新しい年へと針を進めていく。老人は、いっときその針の動きに目を遣った。誰かを待っているのだろうか。時計を確認すると、老人はゆっくり目を閉じた。  目を閉じたままの老人の前で、誰も居ない席へ置かれた珈琲が、ひと口分ふた口分と少なくなっていく。すうっと動き出す文庫本の様子が、カウンターの中に居る主人の目に入った。  小説のページがパラパラパラ……と風に煽られる。いや、店内に風は吹いていない。暖房の空気にページをめくるほどの力はない。  時間にして数秒もない間の出来事だ。最後のページまでめくられた文庫本は、再び伏せられた状態で老人の手元へと戻っていた。  老人はゆっくりと目を開け、少し冷めかけた珈琲を口にする。 「どうかね、君の感想は」  だが老人の問い掛けに応える者は居ない。老人は、少し寂し気に微笑んだ。 「福留先生、良かったらお蕎麦食べていかれませんか? 一人分を茹でるのはどうも上手くいかなくて」  主人の一言に、老人は頷く。「有難い。頂こうか」  温かい蕎麦を啜りながら、二人は束の間、小説談義に花を咲かせる。  日付が変わるまであと数十分。老人は、主人に支えられながら杖を頼りに席を立った。 「須崎君、今年も世話になったね」 「こちらこそ。福留先生の新刊、楽しみにしていますよ」 「あはは、今回も妻からは良い返事を貰えなかったが」 「奥様、手厳しくていらっしゃる」  会計を済ませると、老人は寺から聞こえる除夜の鐘に歩調を合わせながら、ゆっくりと帰路についた。  柘植ノ木珈琲館の扉に掛けられた案内札は、主人の手によってひっくり返される。流石に年内の営業はこれで終了のようだ。  主人は後片付けの終わった店内を見回し、戸締りを確認すると、ほっと溜息を吐いた。 「今年もいろいろな話に会えました」  店の灯がひとつひとつ消されていく。主人は、最後に残った灯の下で、小説家の老人が置いていった一冊の文庫本を手に取った。  伏せてあった表紙を返せば、そこには「物ノ怪が見る夢」とある。ふふ、と主人は含み笑いをし、するりと本の中へ姿を消した。  柘植ノ木珈琲館には、再び誰も居なくなった。  終
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