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柘植ノ木珈琲館の物ノ怪主人は今日も居ない
気付けば営業しているような喫茶店である。定休日はない。商店街のその一角だけ、まるで大正時代にタイムスリップしたかのような不思議な空間。
主人の気まぐれで案内札が掛けられるその喫茶店の名は、柘植ノ木珈琲館という。大晦日であるこの日も、営業中とあった。
店に入ってみよう。
細かな装飾の施されたガラスがはめ込まれた扉を開ければ、まず目に飛び込むのが、店内奥の大きな柱時計。見るからに古い時代のものだが、針はきちんと時を刻んでいる。
次に気になるのは、カウンターの脇に作りつけられた食器棚。色も形もさまざまなカップとソーサーが行儀よく並べられている。なるほど、客はここで好みの食器を選び、珈琲を淹れてもらうという趣向らしい。
ステンドグラスの美しい窓際に、二人掛けの席。壁に沿って、革張りの四人掛けソファーセットが二組。これが客席のすべてだ。いや違う、カウンターにも座高のある椅子が二脚あるが、誰も座って居ない。それどころかカウンターの中にも人は居ない。
扉に営業中の案内札が掛けられているにもかかわらず、店の中には誰一人として居ないのだ。この喫茶店ではありふれた光景である。
きい、と扉が開き、一人の客がひょいと顔を覗かせた。年は三十にもいっていないような青年である。少し気弱そうにも見えるその顔は、だが勝手知ったる行きつけの店といった風に「こんにちは」とぼそぼそ訪いを告げると、人気のない店内に入り、窓際の二人掛け席のひとつに座った。
「大川君、いらっしゃい。一応年内は仕事納め?」
「須崎さん、こんにちは。ええ、明日のニューイヤーコンサートに向けてリハーサルは終わりました。年明けから仕事ですから、仕事納めなんて雰囲気でもないですけど」
「確かにね。お疲れ様、マンデリンでいいかい?」
「お願いします」
当たり前のように会話が始まっているが、この須崎という男は一体どこから湧いて出たのであろうか。まあどこかには居たのだろう。話の流れから見て、路考茶の着物に藍鉄色の前掛けを着けたこの男が、喫茶店の主人で間違いないようだ。
須崎と呼ばれた主人がカウンターに入り、珈琲の準備を始める。この店はサイフォンを使って珈琲を淹れてくれるようだ。コポコポと湯の沸く音、それに合わせてハーモニーを奏でるような時計の音が、店内をゆるやかに流れ始める。
大川という青年は、向かいの席にバイオリンケースを置いていた。なるほどこの青年はどこかの楽団に所属しているバイオリン奏者であるらしい。彼は立ち上がってカウンター席下の小さな本棚から一冊の文庫本を引き抜くと、再び席へ戻る。
それの存在をちらりと確かめ、在ることに安堵し、おもむろに小説を開いた。
「大川君。マンデリン、ここに置いておくよ」
主人が運んできた濃い茶色の液体が、静かに水面を揺らす。青年は既に小説に夢中で、問い掛けには答えない。主人は小さく苦笑する。
向かいに置いてあるバイオリンケースの蓋が開いており、そこからバイオリンの姿が消えていることに、大川青年はまだ気付いていないようだ。まあ、珈琲を飲み終わる頃には戻ってくるでしょ、と主人は小さく肩を竦め、カウンターへ戻って行った。
大川青年は、片手で小説を持ちながら片手をカップの取っ手に引っ掛ける。珈琲の存在には気付いていたようだ。静かにカップを持ち上げ、珈琲の香りを軽く吸い込むと、ひと口こくりと飲んだ。そして、また静かにカップをソーサーに戻す。
繊細な指先の動きは、やはり楽器演奏者ならではのものだろうか。空いた片手で小説のページをめくるとまた没頭し、時折思い出しては珈琲を飲み、また読み進めている。
その様子を、カウンターの中から主人が見ている。見守っていると言った方がいいかもしれない。青年の読んでいる小説は、音なき世界を題材にしたものだ。
音に溢れた青年へ贈る、しばし音のない世界。主人は満足げに頷くと、何やら店内の空間の一角を見上げて合図を送った。そろそろ戻っておいで。
「あー面白かった。須崎さん、珈琲美味しかったです」
「それは良かった。明日、僕も聴きに行かせてもらうからね。頑張って」
「緊張するなぁ、はい。頑張ります。じゃあよいお年を」
「よいお年を」
会計を済ませ、柘植ノ木珈琲館を出て行く大川青年の手には、何事もなかったかのようにきちんと中身の収まったバイオリンケースが握られていた。
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