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それから幾年が過ぎたある日。
春になると桜が並ぶ河川敷に老婆が訪れた。
季節は秋の現在、桜の木には、蕾もない。
だが今日の天気は、雨のち『桜』だった。
老婆は古びたベンチに腰を下ろす。手には、カップに入ったコーヒーを持っていた。
不意に桜の花びらが、満たされた水面に舞い降りた。
「風情なものですな」
老婆と同年代ほどの老人が、老婆に声をかけた。
「ええ、本当に」
老婆は驚きもせず、自然な笑顔を向けた。
二人は初対面だが、まるで旧知の仲のように、言葉を交わす。
「ご一緒しても?」
老婆は微笑んで頷く。
老人は一礼し、遠慮がちに隣に座った。
「いい天気ですな。そして、いい町ですな。年中を通して、桜が見られるなんて」
老人は空を見上げ、ゆっくりと語る。
「……そうですね」
少しの間があって、老婆は答えた。
「桜はお嫌いですか?」
老人は尋ねた。
「いいえ大好きでした。でも今は、嫌いになりましたね」
優しく品のある表情は、どこか影を落とした。
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