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最も幸せだった時間の思い出が、その人の救いになるのではないか。
だが、そんなことはなかった。
「恋ってのは、甘くも苦くもなるんだよ」
と言ったのは誰だったか。
天使をやめて人間になった時、誰かから聞いた言葉だ。
今ならその言葉も、理解できる。
春は、出会いと別れの季節というらしい。
桜を見れば、甘い記憶が蘇る者もいれば、苦い記憶が蘇える者もいるのだろう。
私の願いは、思い上がった傲慢だった。
「改めて問いますが……」
「決意は変わらないよ。やはり私は、残りの時間を『人間』として過ごす」
「いいのですか? 人間には寿命があります。あなたに残された時間も、そう長くはありません」
「構わない。彼女が大好きだった桜を、嫌いにさせてしまったんだ。私は、その償いをしたい」
「彼女があなたを受け入れてくれるとは限りませんよ?」
「分かっているさ」
老人は立ち上がり、一歩を踏みだす。
「ああ、最後に忠告しておきます」
少年の姿をした存在は、老人の背中越しに告げる。
「恋をするということは、いくつになっても、素晴らしいものだそうですね」
悪戯っぽく微笑む顔は、無邪気な少年のそれである。
「あなたがそれをいいますか、神様」
老人は小さく笑い、空を見た。
もう空から、桜が降ることはなくなっていた。
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