26人が本棚に入れています
本棚に追加
兄の方に視線を向けると、聞き逃しそうなほど小さな声で、
「月の夜 ひとしき想い 重ねあう」
と、恥ずかしそうに句を詠んでからまたうつむいた。
まさかの俳句……!!
まさかの五・七・五で、挨拶されるとは思わず、返事をすることが出来ずに私は固まる。
そんな私のリアクションのせいで不安になったのか、兄がまた弟に向かってヒソヒソと何かを告げた。
「お気に召しませんでしたかと、兄が心配してるっす」
「ち、違うの! 挨拶してもらえて嬉しいんだけど、俳句の知識がなくて……それで……。とても嬉しいです。ありがとう!」
私がそう言うと、兄はチラッと視線を上げて、その後ハニカミながらうつむいた。照れているのか、実体化している耳も首元も真っ赤になっている。
なんだか私まで恥ずかしいような、くすぐったいような気持ちになって、思わずうつむいた。
この気持ちはなんだろう。
まだ恋になる前の、小さな小さな芽が生まれた瞬間のような……キュンの鼓動が、胸の奥から響いた気がする。
気付くと、外の宴会は終わったようで公園に静寂が訪れていた。
「あ、静かになったね」
「では、僕らはこの辺で失礼するっす」
兄弟が揃って立ち上がる。
兄が少しモジモジしながら、弟にまた何かを話している。
「ご迷惑でなければ、また、桜の季節に会いに来ても宜しいでしょうか。と、兄が申してるっす!」
「うん。次に会える時までに、頑張って俳句の勉強してみる」
私がそう言うと、兄は驚いたように顔を上げて、ひどく嬉しそうに微笑んだ。そしてチラチラと視線を泳がせた後、意を決したように、今度は真っ直ぐに私を見つめて笑う。
初めて、真正面から視線が重なった。
満開の桜の木と同じ、人を魅了して止まない美しさと儚さを持つ笑顔。やはり桜は、人たらしだ。そして、その中の者もしかり。
「では、またっす!」
小さく手を振る二人が、スッと公園の桜の中へと消えていった。兄だと説明された方の木から、美しい花吹雪が私のベランダで舞い踊る。
その中で一番濃いピンク色をした可愛らしい花びらが、まるで重力に逆らうかのように、そっと私の手の平に着地した。
「ありがとう。またね」
あまりに不思議な体験に、まだ心がフワフワしている。
「古本屋に、俳句の本あるかなぁ? 普通に買うと高そうだし」
勤労学生のお財布事情は、年中真冬並みの寒さだ。それでも、今宵の私の心はポカポカと温かい。
ずっと、四月が嫌いだった。ずっと、公園の桜の木が嫌いだった。
四月の夜は、私の心に憂鬱を描く。
けれど、不可思議と花びらが舞う夜が、私の憂鬱を弾き飛ばしてくれた。
私は今。
再び巡る桜の季節を心待ちにしている。
<了>
最初のコメントを投稿しよう!