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家族がいる広い主屋を出て、離れの先にある井戸へ向かう。敷地が広いから移動でさえも一苦労だ。
千代の暮らす商家である山辺問屋は、材木商人から名を挙げた材木問屋だ。町の建設工事による木材の需要増加、という時代の流れに乗り、屋敷の裏手に位置する大神山の事業を独占し、成り上がった。決して貧しいはずはないのだが、父・彦一も母・つねも下女を雇うことはせず、娘の千代で代用している。
「はあ、はあ……」
水汲みを済ませた千代は、重たい水桶を両側にぶら下げた天秤棒を肩に担いで、必死に早歩きして主屋へと引き返す。
(早くしなきゃ、またお母様達が機嫌を悪くする)
千代には自分が愛されない理由がわからなかった。物心ついたころから、両親や兄姉たちから冷たく当たられてきた。自分の中で考えに考えて辿り着いた答えが、「自分が期待に応えられないから」だということ。
(血のつながった家族だもの。一生懸命働けば、期待に応え続ければ、私もいつか愛してもらえるはず)
やっとのことで縁側に水桶を置いたところで、襖の向こう側からひそひそと話し声が聞こえてきた。
「いよいよ今日だね。ようやく千代を……」
(さよ姉さん? 私の話?)
千代は思わず息を殺し、耳をそばだてる。
「育ちの良い商家の娘は、農村部の芋娘たちと訳が違うってね。思ったよりも高値が付きそうなんだよ」
そう話すつねの声はやたらと弾んでいる。続いて一日に三度は聞く、父のねちっこい舌打ちの音が耳についた。
「年季奉公か。もっと早くこうすれば……」
彦一が口にした信じがたい言葉に、千代は大きく目を見開く。
(年季奉公って……身売りのことよね)
ぞっとした千代は、思わず自分で自分の身体を抱きしめた。
(まさか……まさか、お父様とお母様は、私を人買いに……?)
「あまり幼いと世間体があるからね。ご近所には、どこぞの農夫と駆け落ちした、とでも言っておけばいいさ」
そう言ってふんと鼻を鳴らす一郎の声は、相変わらず笑い混じりで、およそ実の兄のものとは思えない。
「もうじき女衒が来る予定だ。忌々しいあの娘とも、いよいよお別れさ」
つねがそう言った瞬間、くすくすと複数の笑い声が重なる。千代には、今しがた耳に入ってきた話のすべてが信じられなかった。
(女衒って……遊郭に女性を売る人……)
衝撃のあまり、千代の息が上がる。全身から噴き出す、大量の汗。千代は慌ててその場を離れた。離れの片隅にある小部屋――千代の私室に駆け込むと、入り口付近に、綺麗に畳まれた美しい着物が置いてある。今着ているくたびれた着物とは、比べ物にならないほどの代物だ。
『もうじき女衒が来る予定だ』
千代の頭の中で、つねの台詞がこだまする。
『忌々しいあの娘とも、いよいよお別れさ――』
(今日、私はこれを着て、売られるための商品に……?)
冷や汗が止まらない。一生懸命頑張っていれば、いつかは愛してもらえる。唯一の心の支えだったそんな希望が、音を立てて崩れ落ちてゆく。耐え難い絶望の中、千代の頬をひとすじの涙が伝い落ちていった。
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