老いと未達

1/1
前へ
/1ページ
次へ

老いと未達

 ひたすらに体がだるかった。  ベッドから身を起こす。その動作だけでもかなりの気だるさとストレスを覚える。30分起床時間を早くするということが随分体調にダメージを与えてくるようになったものだ。大学時代までは徹夜も平気だったのにな。そんなことをまだしゃっきりしていない頭の中で考えながら、それでも意地と根性でジャージに着替える。昨日試しに着ただけの、まだ新しいジャージは当然まだ体に馴染んでいなくて違和感がある。恐らく完全に体に馴染む前に一度衣装棚の一番奥にしまわれることになるのだろう。  最低限の身支度をした後、のそのそと玄関まで移動、スニーカーを履き、外に出る。アパートの廊下から見上げるまだ夜が明けたばかりの空に、どこかぼんやりとした印象を受ける。冬の厳しさはもうそこにない。このくらいの時期の空はやんわりと人を包んでくれるような表情さえ浮かべてくれているが、これから数か月もすると生命力に満ちすぎて冬とは別の意味で厳しい夏の空になるのだと思うと、今からげんなりする。  歩道に出て、いつもよりやや早い足取りで幹線道路へと向かう。まだ朝は少し寒いが早歩きでも運動には違いないので、汗が皮膚に浮かんでくるのにそれほど時間はかからない。幹線道路に出た時には、もう額はびしょびしょですぐにでもシャワーを浴びたい気分だった。目に入る光景の上の方が幹線道路沿いに植えられている桜のピンクで彩られていて、明日は別のルートを使おうと心に誓う。  もう既にいっそ帰りたくなるぐらい嫌な気分だったが、社内運動会を目前に控えた俺に、帰るなんて選択肢を選ぶ権利はなく、嫌々ながらも目標地点としていた商店街へと向かう。歩道の脇で、名もわからない花たちが桜と同じように咲いているのが見える。まったく、景気のいいことだった。春を門出の季節にしている理由はそりゃあ色々あるのだろうが、それでもこの景気の良さに起因するところも大きいだろう。俺ぐらいの年になると、そもそも祝う門出も祝ってくれる人もいなくなることで春に始まりのイメージはもうなくなり、それどころかまた新しい年度が始まってしまったと若干鬱になるぐらいなのだが。  風がいきなり俺の体に打ち付けるように吹いてくる。逆風。速度がやや落ちる。風の力に耐えきれずに、枝から切り離された桜の花びらが見事なまでの花吹雪を作り、それを見て、ぞわりとした感触を背中に覚える。  風邪ではないのか。休んだ方がいいのではないのか。そんな言い訳が生まれてくる。うるさい。その弱音に心中厳しい言葉を突き付ける。この悪寒が病気に起因するものではないということぐらい、容易に想像がついた。眉間に皺を寄せながら、ややペースを上げ直す。あらかじめ決めていた目標地点へはまだ遠い。  前をちんたら歩いていた、部活の朝練にでも行くのであろう男子高校生2人を抜き去ろうとしたとき、突然右足が思う通り動かなくなった。  感触で靴紐を踏んでしまったのだ、と気づく。理性より本能が早く反応して、俺は手を前にかざした。衝撃。アスファルトの硬い感触が掌にあたり、やや痛みを覚える。だが、まだ転び方がよかったのか、血が出るような怪我はしていないということも瞬時に判断できた。視線が背中に向けられている。目で見るのでもなく、耳で聞くのでもなく、それでも人の視線に気づかせてくれる感覚器官は人間の中に確かにあって、こちらから右方向をうかがってみると男子高校生たちがこちらを見ていた。少し顔に笑みが見えている。くそだせぇな、と自分でも思った。 「大丈夫ですか?」  高校生の1人が声をかけてきてくれる。大丈夫です、すみません。反射的に俺はそう答えるが、何に謝ったのか、何で謝ったのか、自分でも分からなかった。俺は歩道の端の方に移動し靴紐を結び直し始める。前を歩いていく高校生が笑い声をあげたのが聞こえた。また俺のことを笑っているのかもしれない。 「申し訳ございません」  靴紐を結ぶ手が数秒止まる。数日前の上司との会話が頭の中を流れ始めた。おい、やめろ。俺は自分にそう言い聞かせた。でも止められない。 「いや、謝るんじゃなくてさぁ」  ねちねちとした言い方。仕事でミスをしたのは、確かに俺だった。対外的なミスではなかったので、とりあえず大事にはならないレベルのミスだったし、そもそも今の上司になるまでは叱られる類のものでもなかったので、ミスという意識すら実はなかったのだが、指摘されてみればミスであることは間違いなかった。  たった数日前のことなのに、恐ろしいことに記憶があちこちあやふやになっている。無意識に自分を守るために脳が記憶を加工でもしてくれたのだろう。それでも、ひどいやり取りだったということだけは覚えている。部署の全員から向けられる視線がまるで病人に向けるそれと同じだったのだから。  ふん、と上司が鼻を鳴らす。完全に見下した感じのしたその態度。  運動以外の理由で湧き上がってきた吐き気をこらえつつ、靴紐を何とか結び終える。でも、どうせまたすぐ解ける。立ち上がってトントンとつま先を地面に軽く当てているときに、そんなネガティブな考えが浮かんだ。 (だったらもう帰った方がいいんじゃないか…)  弱音がまたしても生まれてくる。だが、転んで怪我をするのも避けたい。あと1時間もしないうちに俺は会社へと向かい始めなければならないし、今日はお客様先への訪問もある。膝を擦りむいた状態で訪問をした経験はないが、いつも以上に消耗することは想像に難くなかった。  迷いながらも、よろよろと目的地の方へと歩く。でも早歩きのペースには到底できなかった。おまけに歩き出してすぐに目の前の信号が赤になった。進むな、戻れ。天からそう言われているような気さえした。社内運動会なんて。くさくさした気持ちになっているとぼやきが生まれる。どんなに頑張っても、直近の不手際が全て帳消しになるわけでもない。  しばらく待っていると信号は青に変わった。今度は足を動かすことさえできない。仕方がなく、ポケットからスマホを取り出す。既に知っているはずの今日の天気をアプリで調べる。前に進めなくなっている俺を人が何人か追い越していく。最初からやや脇に寄ったところに立っていたので、それほど邪魔にはなっていないはずなのに、追い越しざまにスーツ姿の男にちっと舌打ちされる。そのわずかな音で随分と心に罅が入るのが分かった。  帰るんだったら、早くしろ。行くんだったらさっさと行け。スマホに表示されている時刻が、俺をせっつく。またしてもやや強い風が吹いた。前を見ると、桜の花びらが大量にひらひらと舞っている。改めてそのことを意識したとき、今度は体中の皮膚が鳥肌になった。桜並木の中で男とキスをしていた彼女の姿を、まるで1枚の写真のように思い出す。  去年旧友から彼女は結婚したと聞いた。相手は知らない。聞き出す勇気はなかった。17歳の彼女はいつまでも俺の中で可憐な少女の姿として残っている。だからそもそも怒りや嫉妬はあるにはあったが、不思議な気持ちの方がずっと大きかったぐらいだ。同時に長い年月の間に、彼女のことをそんな風にしか感じられなくなっていた自分にも、絶望をしたが。  運動由来のものではない汗をかいていると、横の車道をびゅんびゅん車が走り抜けていく。力が入らなくて一歩も歩けなくなっている俺よりも車のほうがよっぽど偉い。そんなバカげた思いが脳裏をよぎったが、考えてみれば言い得て妙だった。昔、まだ実家に住んでいた頃、家族で乗っていた車が壊れたことがあった。ショッピングモールの駐車場でギアをドライブに入れても、びくともしなかった。軸が折れたのか、とか、バッテリーが上がったのかとか父が騒いでいたような気がするが、今となっては正確な原因までは覚えていない。とにかく車は動かなくなった。  すぐに別の車が我が家に届いた。水色のセダンタイプの車で、俺たちは滞りなくその新しい車に慣れた。前の車のことは忘れ去った。走れない車に、普通の人間は当然用はない。  動けないのなら、捨てられるだけだ。  スマホをポケットにしまい、右頬を右手でぴしゃりと打つ。いつまでもここに立ち尽くしているわけにもいかない。動け。小声で自分に言い聞かせる。いい加減立ち疲れてもいる。嫌な記憶を思い出させる桜吹雪の中にい続けるのも、精神衛生上よろしくない。たとえ気持ちが塞いでいようとしんどかろうと、最低限やるべきことはやらなければならない。もうただで誰かが祝福してくれる年齢ではない。  立ち止まっているときに赤に変わった信号が、再度青に変わる。俺は残り時間のことを考えながら、足を今まで向かっていた方向とは逆の方向に足を向ける。色々とまごまごしていたせいで目的地としていた商店街には、時間内にはもう到底たどり着けない。今日のスケジュールを頭で軽く思い出しながら、俺は桜並木を今度は逆方向にたどっていく。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加