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「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」
藤原定家が百人一首に選んだ歌である。
この一首が真知子の心にぐさりと刺さった。
真知子は大学のカフェテリアの窓から離れた奥まった四人掛けの席でノートパソコンに向かっている。もう2時間ほど根を詰めて再来週のゼミでの発表の準備を続けていた。
お昼休みから随分と時間が経ち、しかもよく晴れた温かい日であったのでカフェテリアは空いている。遅い昼食を取る教職員らしき人が散見されるばかりで、学生はほとんどいない。
真知子は白いフレームの眼鏡をかけてセミロングの黒髪を後ろで纏めていた。白地に黒いラインの入ったボーダーシャツに白いコットンパンツとグレーのスニーカーという装いである。自分はせいぜいこれくらい服装に気を配っていれば十分だろう、と真知子は考えて服を選んでいた。
文学部の国文学科の学部生である真知子は今回の発表で藤原定家をテーマに選んだ。現在はまだ網羅的に知識を固めているところである。今後は今まとめている全体図を基にして、多岐に渡る藤原定家の業績の中から自分の発表の主題をどれかひとつに絞り込む必要があり、そこが難しいところなので、真知子の目下の悩みの種となっていた。
真知子にはもうひとつ大きな悩みがあるのだが、その個人的な問題については自分ひとりで解決することは難しいだろうと重々承知していた。
その事実を想起すると思わずため息が漏れる。
ちょうど区切りのいいところまで仕事を進めていたので、真知子は一旦手を休めて店内の掛け時計を一瞥して時間を確認しつつすっかり冷めてしまったコーヒーを一口飲む。時間の経過を味の落ちたコーヒーが示していた。
ノートパソコンの横には研究室や図書館で集めて来た資料が置かれているが、用意した資料にもあらかた目を通していたから、進捗状況としては概ね予定通りである。
真知子は少しだけ休憩することにして気分転換としてデイパックから百人一首の文庫本を取り出し、アルバイト先の書店でその本を購入した際にもらった紙の栞を挟んであるページを開く。そこにはこの藤原定家の歌が載っていた。
「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」
今までなら「素晴らしい和歌のひとつ」でしかなかったこの藤原定家の一首は、この状況においては大きな意味を帯びており、この時の真知子の胸には重く響いた。
真知子の抱えた個人的な悩みは自分が思っているよりも大きかったからだ。真知子はそのことを思い知らされて、目に入れたくないものを隠すかのように文庫本をデイパックのポケットに収めた。栞は外して雑記帳としていつもデイパックに入れてあるA5サイズのノートに挟んだ。
真知子は大学が春休みに入ってから秀哉と一度も会っていない。新学期が始まった後も学部が違うため同じキャンパス内とはいえ校舎が離れており、偶然ばったり会うということも期待出来ない。
春休みに入る前に秀哉は
「学部に上がってもよろしくな。こっちからちゃんと連絡するよ」
と言い残した。だから真知子は秀哉からの連絡をずっと待っているのだが、今日に至るまで何の音沙汰もない。
秀哉と初めて会ったのは、1年生の後期に履修した「西洋文化史」の講義の行われる講義室であった。
その講義は1限だったが、いつも通り真知子が早めに講義室に来て空いていた前から3列目の席に付き、講義が始まるまで10分以上も時間があったのでデイパックからアンドレ・ジッドの「田園交響楽」を取り出して読みはじめた。
そろそろ先生が来る頃だろう、と思って本を閉じて机の上に置く。ちょうどそのタイミングで隣から
「ここ、空いてる?」
と尋ねられた。男性の声だったし、知り合いの声でもなかったのだが、相手に対して別段興味も湧かなかったので真知子は相手の顔も見ずに
「はい、空いてます。どうぞ」
と答えた。しばらく隣からガサガサとノートやテキストや筆記用具などを出して準備している音がして、それがおさまると突然
「もしかして仏文?」
と尋ねられた。机の上に置かれた本から類推したのだろう。真知子は今度はちゃんと相手の目を見て
「国文学科です」
と答えた。その男子学生は頭を掻きながら気まずそうに
「ごめん。先入観で決めてかかったら駄目だね」
と謝ったが、その所作や表情がなんとも言えず親しみを感じさせるものだったので、憎めない人だという印象を受けたので、真知子は微笑んで、明るい口調で
「別に気にしなくでもいいですよ」
と答えた。安堵の表情を浮かべた相手は
「ありがとう。でもさ、さっきの論法で行くと、俺のほうが国文だね」
と徐に鞄から文庫本の「古今和歌集」を取り出した。
「あっ」
と真知子が驚くと、彼は照れくさそうに
「経済学部なんだけどね」
と告げた。
その時、講義室の前方の扉が開く音がして、講師の先生の姿が目に入った。そこで真知子と秀哉の会話は途切れた。
その後も、「西洋文化史」の講義の度に真知子と秀哉は隣り合って席につき、お互いの好きな文学作品の話をするようになり、やがて連絡先を交換する間柄になった。
それなのに。
くよくよしていても仕方ない。真知子は気を持ち直して、今日はもうひと頑張りしようと、冷めて味も落ちたコーヒーを飲み干した。もう一杯だけコーヒーを飲もうと思い立ち、コーヒーお代わりを得るためにカップとソーサーの乗ったトレーを持って立ち上がる。
カフェテリアの北側、学生や教員の往来の多い通りに面した壁面はガラス張りになっている。店内を移動すると自ずと窓の外に視線が向かい、窓の外では春の陽気に浮かれた学生たちが青春を謳歌するかのように集ってはしゃいでいるのが見える。
期せずしてその景色の中に真知子は「来ぬ人」の姿を見つけた。
また、秀哉もカフェテリアにいる真知子を視認した。
ふたりの視線が合った。
真知子は深呼吸して胸の高鳴りを抑えてから、飲み終わったコーヒカップとソーサーをトレイごと下膳口へ置き、注文口で店員さんにコーヒーを注文した。
秀哉はきっとあの楽しそうなお友達と一緒にいるから、私と目が合ったところで何も起こるまい。
真知子はコーヒーの乗ったトレーを持って自分の席に戻り、再びノートパソコンに向かう。
程なくカフェテリアの入り口の自動ドアが開き
「いらっしゃいませ」
と来店客を迎える店員さんの声が聞こえる。
自然とそちらに真知子の視線が向かう。
そこには秀哉がいた。
秀哉は店員さんに
「アイスコーヒーを下さい」
と注文して、お会計を済ませるとグラスの乗ったトレーを持って、真っ直ぐに真知子のいる席へ向かう。
奇しくもプライベートでの悩みの原因である秀哉の方から真知子の元へやって来たのだ。
会うのはいつぶりだろうか?という疑問も真知子の脳裏に過ったが、それよりも秀哉とどう接すれば良いのか分からない、という心配の方が大きかった。
そんな真知子の動揺を知ってか、秀哉は挨拶もそこそこに
「よっ!こんな日にも勉強とは、真知子らしいね」
と笑顔でからかう。
普通ならこうした台詞は単なる嫌味になるのだが、この秀哉の人柄、特に人懐っこさがそれを中和して余りあるおかげで、真知子は全く不快に思わない。むしろ随分と離れてしまったふたりの距離がこの一言で一気に縮まった感覚すらある。
秀哉はふわっとした髪を伸ばしていた。若草色の長袖のTシャツにデニムとスニーカーという軽装であった。相変わらずよく似合っているなあ、などと感心し、真知子は内心ほくそ笑みながら
「うちの教授は厳しいからね。そっちは大丈夫なの?」
と切り返すと、秀哉は
「まあ、それなりに努力はしてるよ」
と答えると
「ここ、良い?」
と一言断ってから返事を待たずに真知子の正面の椅子に座る。
秀哉は経済学部の中でも一番厳しいと噂される教授のゼミに入ったはずだったが、この人ならどんなに厳しい課題も涼しい顔でこなしてしまいそうだ、と真知子は考えている。
真知子がノートパソコンをパタンと閉じて正対すると秀哉は机に置かれたいくつかの資料を一瞥してから
「真知子は藤原定家を卒論のテーマにするの?」
と真知子に尋ねる。この資料を見ただけで藤原定家について真知子が調べていると見抜いた秀哉の慧眼に驚いたが、真知子はそれについては触れず
「まだ決めてないよ。これはあくまでゼミの発表の準備」
とだけ真知子は答える。
すると、秀哉は
「藤原定家の資料を集めたんだよね。だったら、今、百人一首の本を持ってない?藤原定家が選者だよね」
と尋ねた。
「あるよ。一般向けの文庫本だけど」
と真知子は二つ返事で吹き受けて、先ほどデイパックのポケットに入れた文庫本を再び取り出して秀哉に渡す。
秀哉は百人一首の本を受け取るとまず目次を開いてお目当ての和歌のページを確認し、次にそのページを開いて黙読する。解説文もしっかり読んでいるようだ。
やがて、秀哉はアイスコーヒーの乗ったトレーの上に置かれていた代金のレシートを自分が読んでいた箇所に挟んでから文庫本を真知子に返し
「百人一首の中で俺が一番良いと思う歌はこれだよ」
と言い添える。
真知子がレシートで目印されたページを開くと、そこには紀友則の歌が載っていた。
「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」
それを見た真知子は困惑した。
秀哉は純粋に「桜の散りゆく様は美しい」と思っただけなのだろうか?それとも、真知子との間の曖昧な関係性はこの先、桜の花が散るように壊れていくだろう、と示唆しているのだろうか?
秀哉の真意を確かめ、その上で自分の意思を伝えるために真知子はすぐさま文庫本のページを捲り、ふたつ後ろの番号の歌のページのところにレシートを挟んで、秀哉に渡す。
紀貫之が梅の花を折って詠んだこの一首を真知子は秀哉に突き付けた。
「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香に匂ひける」
あなたの気持ちはどうか分かりませんが状況は変わってないですよ、というのが真知子が伝えたかった想いである。
紀友則も紀貫之も「古今和歌集」の選者なので、この歌集が好きな秀哉へ返す歌としてはちょうど良かった。
秀哉は示されたページをじっくり読んで
「流石だね」
と分かりやすく驚いた表情をした。しばらく続く言葉が出て来なかったが、ようやく口を開いた秀哉が
「真知子は今日、今から時間ある?」
と尋ねたので、それに対して真知子は
「夕方からバイトがあるけど、それまでなら」
と答える。
「あの書店だね。近場だから時間もかからない、と思う。一緒について来て。真知子を連れて行きたい場所があるんだ。ちょっと歩くけど良い?」
秀哉がそう言って立ち上がると、真知子にはまだすっきりしない点が多々あるものの
「別に良いよ。スニーカーだから大丈夫」
とおとなしく従って、ノートパソコンや資料を片付けてバックパックの収める。
ふたりとも慌ててコーヒーを飲み終わり、カップやグラスは秀哉がまとめて下膳口へ運んだ。
ノートパソコンの入った重いバックパックは秀哉が背負い、ふたりは連れ立って大学のキャンパスを出て、閑静な住宅街を10分ほど歩いた。
真知子は今まで来たことのない地域だったので、一体どこに連れて行かれるのか?と不思議だった。
何度も角を曲がり、古い住宅街の狭い路地を抜けると途端に視界が開けた。
そこには川沿いに並んだ桜が満開に咲いていた。
ふたりが立っている場所は遊歩道だと分かったので、秀哉は
「ちょっと歩こうか」
と真知子を誘ったので、真知子は
「うん」
と頷く。ふたりは時に静かに流れる川と満開の桜の花を眺めながらゆっくりと歩いた。真知子は
「やっぱ良いよね。桜って」
とご満悦だった。真知子は
「確かに綺麗だね。ここは静かで良い」
と答えて、周りの景色も気に入ったことを伝える。
綺麗な桜が咲いていて綺麗だが、腰を落ち着けて花見を楽しめるようなスペースがない。
ふたり以外にも遊歩道には桜を見に来た人たちがそれなりの数いるが、皆さんもそれぞれに静かにお散歩しながらのお花見を楽しんでいるようで、真知子は居心地の良さを感じた。
途中、一際見事な桜の木があったのでふたりは足を止め、並んでその桜の木をしばらく眺めた。
沈黙が続いた。
真知子はこのまま時間が止まれば良いのに、とさえ感じた。
だが、秀哉は深呼吸をしてから徐に
「それでさあ、ここまで真知子に来てもらった訳なんだけど、花見がしたかった訳じゃないんだ」
と切り出す。
真知子は、いよいよ正念場だ、と理解した。
やはりお別れを言われてしまうのだろうか、などと考えると胸が締め付けられるような気分になったが、曖昧なままの関係を続けるのも良くないので仕方ない、と覚悟を決めた。
「うん」
と真知子が頷くと、背筋を伸ばした秀哉が真知子に向き合って
「さっきはカッコつけちゃったけどさ、俺の入ったゼミはマジで課題が多くて、それで春休みも潰れたんだ。しばらく連絡出来なくて本当にごめん。俺、真知子にだったらついつい弱音を吐いちゃいそうだったから、甘えちゃわないように我慢してたんだ。そんな弱っちい奴なんてカッコ悪いもんな。なんかさ、もう少し自分に自信が持てるようになるまでは、駄目だって勝手に考えてたんだ」
と真情を吐露する。
そうか。秀哉も大変だったのだ。真知子はその状況を理解することが出来た。だがその一方で真知子は、そういう辛い時こそ自分を頼ってくれれば良いのに、とも思った。
しかし、真知子はそうした思いを胸のうちに留めて
「うん」
とだけ答え、秀哉の次の言葉を促す。
「それで、今日久しぶりに真知子に会って、さっき真知子の返して来た歌を目にして、分かったんだ。俺は馬鹿だ。後ろから思いっ切り頭を殴りつけられたくらいの衝撃を受けた。大切にしないといけない人を放っておいたらもう取り返しがつかなくなるんだよ。自分のくだらない意地なんてなんの価値もないから、もう捨てるよ。だから、まだ何者でもない俺だけど、もうここで言うね」
と秀哉はやや早口で言って、そこで呼吸を整える。そして
「俺は真知子のことが好きです。これからは正式に恋人として俺と付き合ってくれませんか?」
と真知子に告げた。
秀哉のこの告白に真知子は驚いた。話の流れから別れ話ではないと予測出来ていたのにも関わらず、である。
面と向かって秀哉から思いの丈を伝えられたので、真知子は心を打たれたのだ。それに、秀哉が自分のことをずっと想ってくれて、独りでもがき苦しんでいたことにも真知子は感銘を受けた。
真知子は急に緊張の糸が切れた上に、様々な感情や思考が同時に湧き上がって頭が回らなくなったが、何とか
「はい」
とだけ答えて、気付けば落涙していた。
真知子の心の内では、喜びと安堵が錯綜していた。
真知子がハンカチで涙を拭って、気持ちを落ち着けている間、秀哉は顔をくしゃくしゃにして喜んでいた。そして
「やっぱさあ、桜は良いよな。俺たちを祝福しているようだ。世界が輝いて見えるよ」
と感慨深げに心情を述べる。
真知子はその言葉を聞いて、ふたりの人生にとっての最高の瞬間にまで桜が入り込んでいることに腹が立った。
きっと秀哉はこれから真知子と会うたびに今ここで咲き誇っているこの桜を思い起こすだろう。秀哉の心の中では、既に真知子と桜は渾然一体をなしており、分けて考えられないものとなった可能性も高い。
そこまで考えた真知子は、自分の心の内に桜へ嫉妬する気持ちがあることに気付き、その滑稽な心のあり方に妙なおかしみを覚えてクスッと笑った。
(了)
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