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前代未聞
ベンチ裏ではみんながソワソワしていた。マネージャーが「うわ~、どうしよう」と爪を噛む。
「ヤバいですよ、監督。アイツもう戻っちゃってます」
伝令係の野島がソッと囁いた。まさかたった3分で効果が切れるとは思わなかった。緊急事態だが監督がすぐにタイムをかけるだろう。野島はブルペンにいる2年生の下田に目配せした。下田も「いつでも行きますよ」と頷く。
だが、真鍋監督は動かない。
「そっか~、コスメが切れちゃったのか。そりゃ仕方無いな」
ニコニコしながら腕組みをする。
球場に詰めかけた大観衆がザワザワし始めた。そりゃそうだと野島は思った。何しろマウンドにいる投手の身体が縮んだのだ。驚かない方がおかしい。主審もマスクを取って、何度も目を擦っている。
当の本人はと言うと、1アウトを取って次のバッターをどう打ち取るかに夢中で、自分が元の姿に戻っている事にまだ気付いていないようだ。慌ててキャッチャーの田中がタイムを取った。内野陣が駆け足でマウンドに集まる。主審も塁審を手招きしてホームベースに呼んだ。
「おい、碧。元に戻っちゃってるぞ!」
「えっ?......あら、ホントだわ」
主将の藤堂に言われて自分の手が小さくなった事にようやく気付いた碧。
「まだあと2アウト残ってるのに、どうすんだ」
「どうすんだって言われてもねぇ」
「審判達がコッチ見てる」
「監督はピッチャー交代するつもりは無いみたいだ」
主審から見えないように碧を取り囲んだ内野陣は、グラブで口許を隠しながらヒソヒソ話す。
主審に呼ばれた真鍋監督は「ちょっと行ってくるわ」と言い残して、グラウンドに向かった。
「あの監督、佐藤君が佐藤君がお、女の子になっちゃったんですけど?」
動揺する主審の顔はサバの様に真っ青だ。真鍋監督はニコニコしながら、
「何言ってるんですか。佐藤は男ですよ」
と返した。次のバッターは手にしていた金属バットをボトッと落とし、不知火高校のベンチはシンと静まり返っている。
主審に呼ばれた川口監督がドスドスと巨体を揺らして走って来た。
「真鍋監督、どう言う事ですか!」
「さあ」
「さあって何なんですか!」
川口監督の顔がみるみる真っ赤になる。高校野球のルールでは男子選手しか公式戦に出場出来ない。それなのに、マウンドに女子選手が立っている。明らかにルール違反だと思った。
「ウチのチームは全員男子選手です。佐藤碧もそれで登録してますから。何でしたら確認されたら如何でしょう」
一体何が問題なんだ?と言わんばかりに涼しい顔の真鍋監督。
前代未聞の出来事に、一旦ダグアウトに引き上げる事にした主審。「しばらくそのままお待ち下さい」と場内アナウンスが球場に響いた。
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