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序奏とロンドカプリチオーソ
子ども達が舞台でヴァイオリンの演奏を始めると両親たちはカメラを一斉に向ける。世界中どこにでも見られる微笑ましい光景だった。
身体を揺すって全身で弾く子、すまし顔で自信たっぷりに弾く子、不安げに顔を青くさせている子もいる。そういえば自分もあんな風に懸命にピアノを弾いてたっけ、母親に褒められたい一心で。
伶が子ども達の力いっぱいの演奏に目を奪われていると背後から肩を叩かれた。
「どう、楽しんでる?」
ブラックスーツを着こなすレオの凜々しさに、伶は一瞬、言葉を失った。鼻筋の通った品の良い顔立ちと、ヴァイオリンを手にしたすらりとした立ち姿は、舞踏会の主役みたいな華やかさだ。
レオは赤いバラ一輪、ジャケットのえりに挿す。教室運営のボランティアをしているニナが「今日の主役ね」といってくれたという。
「なんか変?」
「いや。そんな服持ってたんだなと思って」
レオはヴァイオリンを持ちながら両手を大きく広げ、愛嬌たっぷりな笑顔を見せた。
「"se mettre sur son 31" だよ」
「31番を着る? どういうこと?」
「勝負服だよ。まあ、僕にとっては鎧かもね……舞台という戦場で戦うんだもの」
「なるほど」
演奏を終えた子どもたちが、小さなヴァイオリンを大事そうに抱えて集合写真を撮っている。ふたりは観客席の隙間を抜けていった。
50席ほどある観客席は舞台上のグランドピアノに向けて並べられ、そのほとんどは埋まっていた。集まっているのは演者の関係者か地元パリの人だろう。
「さて、やりますか」
『序奏とロンドカプリチオーソ』
30ページ以上あるスコアを1日で暗譜するのはさすがに不可能だった。伶はピアノ椅子を慎重に調節し、スコアを4枚ずつ譜面台に並べる。
そう広くもない部屋にこれだけ人がいると、やっぱりかなり蒸し暑くなるな。持ってきたハンカチで鍵盤と指を入念に拭いた。
レオは手にしているヴァイオリンを子どもたちに見せ笑い合っていた。あまりの余裕ぶりに皮肉のひとつでも言いたくなる。まったく誰のせいでこんなことになったんだか。
やわらかな拍手で迎えられ、ようやく楽器を構えた彼は伶の視線を受け流し、小さくうなずいた。
(何度聴いてもすごい.......)
レオのヴァイオリンの音色はコンセルヴァトワール全体に響き渡った。子どもたちはもう息を吸うのを忘れてるんじゃないかって心配になるほど彼の虜になっていた。
獲物を見つけたハヤブサごとく、軽やかに駆け上がっては、急降下。目にも止まらぬスピードで音を掴む。必死に音を紡ぐピアノの上を、レオは軽やかなヴィブラートで飛び越えていく。
曲が後半へと移る頃、視界の端にニナが映り込んできた。舞台袖の2メートルほどある大窓の前に行き、その取手に指をかけている。
最近は、パリの夏も尋常じゃなく暑い。熱気を帯びた会場に風を入れようとしたのだろう。窓を開ければ南岸の心地よい風が入ってくるのは分かった。
しかし。
ちょっと待って!! と思った瞬間。
折れ曲がったスコアの端が、夏の風に絡め取られる。ニナが慌てて窓を閉めたがもう遅い。
ぶわっと桜吹雪のようにスコアが舞う。
わっ! と観客の視線がピアノに集まった。
伶は鍵盤に落ちるスコアを、反射的に手の甲で払いのけた。別にスコアなんて見なくても弾ける......はずだった。いつもならの話だ。
3小節先までなら覚えている、だがその先は?
ヴァイオリンに合わせる一音だけでいい、繋げばなんとかなるはず。
ニナのスコアを拾い上げる足音、子どもたちのはじけたような笑い声。違う、聞きたいのはそんな音じゃない! 考えれば考えるほど、指先が凍った氷の上で転んだかのようにコントロールできなくなっていた。
合わせよう――そう思った瞬間にはもう遅い。すでに聴衆が気づくほど遅れを取っているのだ。
レオがヴァイオリンを掻き鳴らしながら、刺すような視線を向けた。
ただ呆然と白と黒の鍵盤を見つめていた。
レオは?
ハッと気づいて顔を上げる。
ヴァイオリンの旋律は止まらない。
むしろここは最初からカデンツァだったと言わんばかりに、壮大にアルペジオを奏でた。
レオが両手を高く掲げて声援に応えている。
大いなる波乱を含んだステージは、嵐のように過ぎ去った。
舞台が捌けた途端、彼は分かりやすく顔を歪めた。
「レイ、なんで止まるの! 昨日はあんなに調子良かったのに。やる気あんの?」
レオは顔を真っ赤に上気させ、不機嫌な声を隠そうともしない。さっきまでの興奮がさめやらない自分も気が立っていた。
「レオにもらったスコアがぐしゃぐしゃなのがいけないんだろ」
「はぁ!? 僕のせいにするわけ?」
「だいたい、たった1日練習しただけで人前に立とうっていうのが、そもそも無謀なんだよ」
「無理じゃない。頼まれたらちゃんとこなすのが演奏家の仕事だろ!」
お客さん達が驚いた様子でこちらをうかがっていた。ニナがふたりに気づいて飛んできて、ふたりの仲裁に入った。
「レオ、そんなに責めないで。彼は代理で来てくれたんでしょう? 2人の合奏は本当に素晴らしかったわ。あなたのピアノはぴったりレオに肩を並べて決まってた。レオも弾きやすかったはずよ」
ニナに褒められても、ただ慰められているようにしか思えなかった。彼女は優雅なしぐさで申し訳なさそうに手を胸に当てた。
「あなたたちの邪魔をしてしまったのは私よ、こんなミスするなんて」
「ニナのせいじゃない。心構えの問題だよ」
口をへの字に曲げ腕を組んでいたレオだったが、ニナの言葉にいくらか勢いを失ったようだった。
もうどうだっていい。
レオの演奏を台無しにしたのは認める。自分にも非はある。でもそこまで一方的に責められることだろうか。
昨日、寮でレオと出会い、生まれて初めてヴァイオリンの伴奏を引き受けたのに。こんなことになるなら、伴奏するなんて言わなければ良かった。
ニナと別れる時、お互いぷいっと背を向けた。でもどんなに反発しても帰る家は同じ部屋、最悪だった。
帰路につく頃には、短い夏の終わりを告げるように涼しい西風が吹いていた。コンセルヴァトワールの隣にある広場の噴水を通り抜けながら、これからのことを考えていた。
秋になれば新学期が始まる。学校に通いながらこんなストレスを毎日浴び続けるのは辛い。
寮に戻ったら、管理人にルームメイトも部屋も変えてもらうように頼んでみよう。だいたい、昨日初めて出会ったときから、レオの印象は良くなかったんだ。
学生達はヴァカンスで、寮には誰も残っていないと聞いていたのに、彼だけがマルセル寮に巣くう幽霊みたいにそこにいたんだ。
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