ミュゲと煙草と

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ミュゲと煙草と

ふっと、香りを感じた。 優しくて穏やかな、かすかにせっけんのような。 あぁ、ミュゲ(すずらん)の香りだ。 あの日のことは、忘れられない。 いつの間にかピアノの上に置かれていた、ミュゲのブーケ。荷物を片付けている間に眠ってしまったらしい。物で溢れる荒れた部屋の中で、純白の小さなベルが小憎たらしく存在感を放っていた。 ――――疲れた、もう。何もかもどうでもいいと思えるほど。 「レオ?」 ――――むしゃくしゃする。 「戻って来たの?」 「……ただいま」 久しぶりに会った彼は少年とはもう呼べない、17歳の爽やかな若手ヴァイオリニストの姿だった。背はまた少し伸びたようだ。仕立ての良いジャケットを脱ぎ、木製のハンガーに掛けている。さっぱりと切りそろえられたえり足が眩しかった。 レオはプロの演奏家としてデビューを果たしていた。ロン・ティボー国際コンクールで、地元出身者として華々しく優勝を飾り、すぐに鳴り物入りでデビューコンサートが組まれた。 フランス国立交響楽団との共演を皮切りに、イタリアはフィレンツェとバーリ、ドイツのライプツィヒ、各国のオーケストラと共演し、演奏家として大きな一歩を踏み出していた。寮に戻ってきたのは2週間ぶりだ。 その間に自分は退学届を出した。卒業試験から2週間。日本に帰る決断するにはちょうどいいタイミングだった。飛行機のチケットも取った。 「ミュゲの花買ってきたの?」 「そう、今日は5月1日だから。そこらじゅうで売ってたよ」 贈られた人は幸せになるというミュゲのブーケ。今日ばかりは街中がこの花で満たされる。レオは窓辺へと進み出てカーテンを開けた。眩しい初夏の陽気に照らされ、部屋の荒れ具合がよく目立つ。 「僕のことは構わず練習して」 「今日はもうしないよ」 なかば怒ってるみたいに伶は答えた。退学する自分に、今さらなにを練習しろというのだろう。無論レオは何も知らないのだが。 「じゃあ、なんか弾いてよ」 「今? そんな気分じゃないんだけど?」 「クラシック以外の曲がいい」 「相変わらず人の話は聞かないんだから」 レオは気だるげにピアノにもたれかかった。その表情 は生気なく微笑んでいて、仮面が顔に張り付いているみたいだった。大人相手に愛想笑いのしすぎなんじゃないかと邪推してしまう。でも彼が、外の世界でどれだけのプレッシャーと戦っているかぐらいは想像がつく。 「なんでもいい、レイのピアノ聴きたいんだ」 「これから一曲弾くごとにお金取ろうかな」 「いいよ、いくらでも払う」 「これだから有名人は。ほんとに払ってもらうよ。今まで3年近く、奢った分も、ぜーんぶ」 「全部払うから、お願い」 ......本当に返してもらおうかな。日本に帰る前に。 ポール先生は言われたことを3回以内に直さなければ、顔を真っ赤にさせて容赦なく楽譜を叩いてきた。これじゃ卒業試験は通らないぞ、と。落ちると分かっていた卒業試験を受けたときの空しさは忘れられない。 まだ若いのだから、あと一年続けなさいと講評ではそう言われたけれど……母の手術の日が迫っていた。 「君は、お母さんのそばにいてあげた方がいい」 先生は面識のあった伶の母を心配し、そばにいてあげるべきだと帰国を促されたときに悟った。先生が引き留めたいと思うほどの実力も、自分にはないのだと。 自分の音楽にも、母を残してパリで過ごすことも、迷うのはもうやめた。 「ほら、ブーケもあげるから」 差し出されたブーケの香りよりも、異様なものがつんと鼻をつく。 「......煙草臭い」 伶の吐き捨てた言葉に反応して、レオは腕を曲げて鼻をくっつけている。 「僕? 自分じゃ分からない、そんなに匂う?」 「香水みたいな匂いと混ざって、むせそう」 「ミュゲのブーケじゃ、ごまかせないね」 「煙草の臭いならクリーニングに出すか、何日か干しておかないと」 この国で煙草を吸う人は多いけど、その煙と臭いにはどうにも慣れない。でも大人の社会になじみ始めたレオに、そういう臭いがついていても不思議じゃなかった。 「……カトリーヌを弾いたんだけど」 「それって、ヴァイオリンの名前?」 「うん、そう」 「弾いてる間にジャケットに染み込んだんだな。あの男ずっと煙草吸ってたから」 「そんなに狭い部屋で弾いたの?」 「いや、弾いてたら後ろから抱きつかれた」 伶は目を見開いた。
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