ミュゲと煙草と

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「抱きつかれたって……男に?」 「うん」 レオはミュゲを指でつつきながら答える。まるで自分のことじゃないみたいに。 公演後オケのメンバーに誘われ、ヴァイオリンのコレクターだという男性の部屋へと連れ立って訪れた。タダで飲ませて貰えるよ、と耳打ちされて。最上階にある豪華なホテルのスイートルームで宴は催された。窓からは眼下の夜景が散らばった宝石のように輝いていたという。 部屋の主人である男はホテルを何件も経営してる正真正銘の富豪一族の一員。30代ながら敏腕経営者として、代々受け継がれているオールドヴァイオリンのコレクターとして名前を知られていた。背の低い丸顔の男は、愛想よく自分達を歓迎してくれた。 ……隣の部屋にコレクションがあるんだ、見にこない? 彼はそう囁いて、レオひとりを隣の部屋に招き入れ鍵を閉めた。高そうなワインを勧められ、公演について談笑してしばらくたった頃、彼は切り出した。 「君が弾くところ見たいな」 豪奢なアンティークの飾り棚には、何挺もヴァイオリンが飾られていた。彼はその中からヴァイオリンをひとつ丁重に選び出し、レオに手渡した。 「これはどうだろう?」 その名器はレオの大きくない手にしっとりとなじんだ。ボディは小さめだが、高音が信じられないくらい伸びた。カトリーヌは女神の歌声だった。公演後の興奮もあったのか夢中で弾いた。 もっと他の曲も弾いてみたい――。 気づいた時には男の腕がレオの腰に巻きついていた。 背中に男の身体がいやらしく張り付いた。 目前のヴァイオリンが紫の煙に包まれる。 あっと思ううちに首筋に濡れたぬるぬるした何かが触れ、驚きのあまり音程が外れた。 「あのっ」 「弾くのを止めたらダメだ。騒いだら、君が楽器を盗もうとしたと人を呼ぶよ。弾いてる間は誰も疑わない……ちゃんと最後まで弾くんだ」 指先が微かに震えた。でも弾くのをやめるわけにはいかなかった。爬虫類を思わせるざらついた感触が首筋をせわしなく這っていく。同時に男の手はレオのズボンのベルトを外し躊躇なく下着の中へと潜り込ませた。 どくっと苦々しい何かが溢れそうになって、鼓動が速まる。 「やめ、てください」 隣の部屋からオケの団員たちのどっと笑い合う楽しげな声が扉越しに届く。彼らには自分の存在など忘れ去られているようだった。 「カトリーヌはお気に召したようだね」 「っ!」 レオは身体を固くしながら耐えた。頭は混乱しているのに、なぜかヴァイオリンだけは弾くことができた。身体の記憶だけでできてしまう自分がかえって恨めしかった。 「もしかして初めて? 女の子と遊んだことないの? それとも男の子かな。嘘だろ、こんなに可愛いのに」 男は酒臭い息を荒げ、手先に意識を注いでいった。 もう何もかも限界だった。 レオの声が震えていた。 「弾き終わるまで何もできなかった……なのに勝手に身体が反応して……」 「レオ、もういいよ、分かった。もうそれ以上思い出さなくていい。いいから」 ――――吐きそう。 レオはごくりと唾を飲み込み、ピアノの足元へずるずるとうずくまった。
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