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「殴ってやればよかったのに」
「そんなことできるわけない」
「だって許されることじゃないだろ。そんな犯罪じみたことまで我慢しなきゃいけないなんて狂ってるよ!」
「……レイには分からないだろうね」
分からない。なんて声をかけたらいいのかなんて分からなかった。いままで自分のこととピアノのことしか考えてこなかった。人が弱っている時に相手を癒す言葉すら選べないんだと、自分が情けなくなる。
「とにかく疲れてるんだよ、少し休みなよ」
「寝てなんていられないよ。あさっては卒業試験なんだ。そのために戻って来たんだから。課題もまだ確認してない」
試験が終わってもすぐにコンサートがあると言って立ち上がろうとし、力なくまた崩れた。
「思い出してしまって今はどうしても弾きたくない。もう前みたいにできないんじゃないかって......怖いんだ」
いつも自信に溢れているレオのヴァイオリン、今はこんなに怯えている。レオの尊厳ともいえる彼の才能と努力を、いとも簡単に刃物で傷つけたのは誰だ。自分がどんなに望んでも手が届かないそれらのものを、どうしてたった一度会っただけの男に汚されなければいけないんだ。
「……そんなことで変わるわけない、変わっちゃいけないんだ。お前ならちゃんと弾ける」
「変わるわけないって、どうして断言できるの?」
「じゃあ、弾けてるか聴いてやるよ、今から」
「できないって言ってるでしょ」
首を振るレオの肩を、指が食い込むくらい掴んでいた。
「だから弾いてみろって。本当に弾けなくなったのか聴いてやるから、今すぐ弾いてみろよ!」
その声は部屋の外に響くくらい大声だった。
あぁ嫌だ。
どうしよもなく腹が立つ。こんなにも自分が苛立っていることに今気づいた。レオに対してじゃない、自分に対して。
学校を辞めることにも、試験に落ちたことも、もう十分受け入れているつもりだったのに。苦しんでいるレオに向かって、ただ彼に当たってるだけなんだ。分かっているのにどうしても我慢できない。
「レオには分からないよね、敗者の気持ちなんて」
「......なに、それ」
レオの肩を押さえてる手首が針で刺すように痛んだ。もう何ヶ月も前から痛い。休んだ方がいいと言われても、どうしても弾くのは止められない。痛みを堪えてどれだけ練習しても、見えない壁をどれだけ拳でたたいてみても、壁を壊せたことはない。
「お前がコンクールで優勝した時、何人が涙を呑んだか考えたことがある? みんな自分が一番だと信じて、死ぬほど努力してきても、目の前のお前にあっさり抜かれるんだよ? その悔しさが分かる?」
レオは一点を睨んだまま、わなわなと唇を震わせていた。彼の苦悩する姿なんて見たくないのに、コップに勢いよく注いだ炭酸が溢れ出てしまったみたいに、一度こぼれた感情は止められない。
「でも僕は知ってる、レオがどれだけヴァイオリンに身を捧げてきたか。何万時間練習したと思ってるんだ、それを台無しにされてたまるか。一瞬でお前の才能をへし折るようなことされてたまるか! ……悔しいんだよ、そんなこと許さない。絶対に許さないから!」
言い終える前にレオが首筋に飛びついてきた。首筋に当たる彼の頬が濡れている。
外の世界で耐えてきた彼の心はもう傷だらけだ。刺さったままのガラスの破片を涙で流すかのように泣き続けた。
鼻をすするたびに揺れる背中を撫で続けた。
「――大丈夫だよ」
レオの呼吸は眠っているかのように、だんだんと鎮まっていった。こうしてレオのそばにいられるのもあと少しだった。来週には寮を出るのだから。
レオは伶の肩に顔をうずめたまま動こうとしない。
……あったかいな。
こんなに人ってあったかいんだ。レオの身体の温もりが心地良い。レオを慰めているはずなのに、なぜか癒されている自分がいた。
うなだれたままレオはようやく顔を離した。
「レイ、誰にも言わないで。秘密にしてくれる?」
「当たり前だよ、誰にも言わない」
「レイの嘘がないところ、好きだよ」
ごめん。
傷付いたレオを何も言わずに置いて行くよ。もうお別れだ。
君がいない間にこの部屋から出ていくよ。
......さよならは言わない、引き止められたら辛くなるから。
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