夢想

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夢想

「あ、レイ、起きた。おはよう」 目を開けるとレオが清々しい笑顔を向けていた。数回瞬きをしてみたが、状況が飲み込めない。 とりあえず自分の部屋のソファーで寝ていたことだけは確かなようだ。 「ボーッとして、どうしたの? 相変わらず寝起きが悪いね」 久々に聞く愛嬌のあるフランス語よりも、寝顔を見られていたことに気まずさを感じる。っていうか、なんでレオがいるんだっけ。 「......変な夢を見た」 「へえ、どんな夢?」 「言わない。っていうか、なんで家にいるの?」 「もう忘れちゃったの。レイが来てもいいって言ってくれたんだよ」 「押しかけてきたの間違いじゃない?」 「やだなぁ、人聞きの悪い」 リサイタルの後、レオ達はレコード会社主催のファンとのサイン会や写真撮影をこなした。その後、なじみの店があるからと城に無理矢理誘われて、打ち上げとしてフランス料理店に訪れたのだった。 彼らはワインセラーが空になるほどボトルを空けてご機嫌だったんだ。そこまではよかった。 で、どうしてここへ?  ああ、そうか。レオが家に来たいとか言って駄々をこね、宿泊先のホテルに着いても自分の腰にしがみついてタクシーから降りなかったんだ。 「3日後に日本での最終公演がある。一緒に出てくれるよね。oui(いいよ)って言ってくれるまで離さないよ」 「絶対に嫌だね」 「レイとのデュオは、セックスより気持ち良かったよ?」 「この酔っ払いが、離せ!」 そんな妙なやりとりをした記憶がよみがえってくる。なんとか部屋まで連れてきて、そのままベッドに寝かせたんだった。 「レイがベッドを譲ってくれたおかげで、東京の朝の景色も楽しめたよ」 「ソファで寝かせたりしたら、城さんに怒られるよ」 商業ビルの3階にあるこの部屋はもともとオフィス用の物件だった。そのためワンフロアで仕切りがない。大きな腰窓がありベッドは窓際に寄せていた。ベッドだけは丸見えだと落ち着かないので、簡易的なスチールのパーテーションで仕切っている。 レオはキョロキョロと視線をさ迷わせていた。 「レイはなんでこんなからっぽな部屋に住んでるの?」 「なんでって、そんなことどうでもいいだろ......それよりお腹空いてない?」 「空いてるよ、もちろん!」 ふたり用のダイニングテーブルに、黄色いランチョンマットが二枚敷かれている。背もたれの付いた小さなスチールの椅子にレオはちょこんと腰掛けた。 「コーヒーか紅茶か、牛乳か......しかないけど、どうする?」 「カフェクレームに焼きたてのバケットかアンシェンヌがいいね。できればbien cuit(こんがり焼けた)で」 「だいたい駅前の成城西井で売ってるよ」 「なんて僕が言うと思った?」 「あんパンとメロンパンどっちにする。選ばせてやるよ」 「なにそれ?」 レオはメロンパンは甘いけどなかなかいける、といってあっという間に平らげた。伶の食べているあんパンも狙ってくる。 「あんパンっていうのは美味しいの?」 「なに、まだ足りないの?」 「違うよ、そのパンに興味があるんだ。ちょうだい」 雛鳥が餌をねだるように口を開けて待っている。しかたなく一口ちぎって放り込んだ。 「んー、甘いね。でももうちょっと」 昨日の輝くような演奏とまるで違う彼の態度に、むず痒いようなおかしな気分になってくる。 結局あんパンは半分奪われた。伶が淹れたブラックコーヒーもおかわりし、メロンパンの方が断然好きだな、と聞いてもいないのに講評まで述べる。 使った皿を洗い終えた頃に、部屋を勝手に探索していたレオはふたたびダイニングテーブルに戻ってきた。彼が長い足と腕を組んでアンニュイな表情を浮かべれば、ここもパリのカフェのテラス席みたいな雰囲気になる。 「ねえ、レイ。どうして最終公演の伴奏してくれないの?」 「どうしてって、当たり前だよ。僕はピアノ伴奏なんて素人同然だよ。3日ごときで弾けるようになるわけないだろ」 指に顎を乗せたまま、レオはまっすぐに伶を見据えた。 「でもロンカプは最高だった。あんな風に気持ちよく僕の演奏を受け止めてくれた人、今までいなかったよ」 「あれはレオに付き合わされてよく弾いてから。ほかの曲は無理だよ」 彼はちょっと拗ねるみたいに口をとがらせた。 「リサイタルが成功したら賞賛されるよ。仕事も増えるかも」 「これ以上増えても嬉しくない」 「レイってほんと欲がないよね。それっていつか自分で自分の首を締めることにならない?」 もう一度、あの喝采を浴びたくない?  二人で奏でる喜びを味わいたくない? レオの言いたいことは表情にあらわれていたが、彼が指さしたのは部屋の一番隅の暗い場所だった。
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