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「……あのアップライトピアノ寂しそうだね。レイのピアノ聴かせてよ」
「無理だよ。この部屋は防音もないし、運んでから一度も調律してないから」
「だからあんなにほこりっぽいの? 可哀想じゃない?」
「母のピアノなんだ。祖父がどうしても渡したいって言うから引き取った」
「お母さんは弾かないの?」
「母の遺品だよ。もう弾くこともない」
レオが椅子から立ち上がる勢いで、眉を寄せた顔を向けてきた。
「レイのお母さん亡くなったの? パリで一緒に暮らしてたお母さんだよね?」
「そう。3年前にね」
「お悔やみ申し上げるよ。レイのお母さんに会って、たくさん話したかったな。音楽の趣味が合いそうだったのに」
レオと合奏するクラシック以外の曲はたいてい母が好きだった曲だ。母から譲り受けたCDを聴いては編曲して、ふたりでよく弾いた。ジャズやピアソラなどのラテン、映画音楽にミュージカル、ロックまで。
母はとにかく音楽が好きな人だった。あらゆるジャンルの名演を聴かせ、音楽が譜面の中だけに存在するのものではないことを教えてくれた。
一度も会ったことのないレオですら、思いやりの言葉をかけてくれる。それなのに自分は遺品である母のピアノを一度も弾いてないなんて、薄情な人間に思えて仕方がない。
母が今の自分を見たら何て言うだろうか。ピアノの講師として、ピアノにはかろうじて携わってはいるけれど、心の底からやりたいことかと問われれば、嘘になる。
じゃあなおさらピアノの音が聴いてみたいと、レオはせがんだ。
伶はピアノの前に座り、ほこりの積もった蓋を開ける。
母が触れていた鍵盤達が、あの頃と変わらずきちんと整列していた。
ごめんね、ずっと放っておいて。
ポーン、とくぐもったAの音色が、お返しとばかりに伶の記憶を呼び覚ます。
「Rêverie だね」
「母が好きだった曲だ」
「レイのはじめてのピアノの先生だね」
「......そう」
祖父母の家には、広い庭の片隅に小屋があった。8畳ほどの部屋の中はホコリっぽく物置と化していたが、高校生まで愛用していた母のピアノだけは、つんとした高貴な存在感を放っていた。
母のおぼつかない指使いで奏でる曲はドビュッシーの「夢想」。子ども心にこんなに美しい曲が母の指先から生まれるのかと驚いたものだ。
「伶も弾いてみる?」
「うん」
その日から朝から晩までピアノを夢中で教わった。小屋まで灯油ストーブを運んできてくれた祖母に、よく飽きないねと呆れられたくらいに。それから年が明けるまで毎日弾き続けた。
内気な自分がピアノとならいくらでもおしゃべりできた。静まり返った家の中でも。なじめない学校生活から戻ったあとも。自分のかけがえのない拠り所となった。
3年前の晩夏、病は母を蝕み続け、大学病院からホスピスへと移ることになった。ホスピスがある丘の上からは、色とりどりの花が咲き誇る風景が広がっていた。母は花畑ばかり飽きずに眺めて過ごした。
先生も看護師さんもいつも笑顔と温かい声で母に寄り添ってくれた。そんな人間らしい優しさに溢れた場所で、母はたった5日過ごしただけだった。あっという間にいってしまった。
その最期の数日間、痩せた母の手を握った。病床の母から伝えられた言葉はひとつだけ。
「伶、ピアノ続けてね」
それは音大にろくに通わず、見舞いや付き添いで母とともに多くを過ごした自分に向けられた、母からの最後の願いだった。
翌年、伶はぎりぎりの単位で4年生に進級した。からっぽになった虚しい時間を埋めるように、がむしゃらに単位を取りなんとか卒業することができた。
まわりの学生達はすでに就職や海外留学などを決め、自分が就職活動に参加すらできていなかっとことに、その時になってようやく気づいた。
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