序奏とロンドカプリチオーソ

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寮の管理人と思しき中年男性に、面接試験みたいにじろりと睨まれたときから嫌な予感がしてた。 指定された部屋はあまりに荒れていた。脱ぎ散らかされた服も、飲みかけのペットボトルの山も、この部屋の住人がどんな生活をしているかを物語っていた。 ドアを開けるとすぐに、使われていなさそうなアップライトピアノと一人がけの白いソファーが置かれていた。その奥には洞窟のような狭い部屋が2つあり、ベッドが一台づつ置かれていた。 「わっ!!」 おずおずと奥に進んで飛びのいた。ピアノとソファの死角で人が床に倒れていた。ヴァイオリンと弓も床に放り出されていた。 (まさかこの人がルームメイト......?) 顔色の悪い男は着古したグレーのTシャツに、穴の開いた綿パンをはき、色褪せた枯れ葉みたいな髪は乱れてボサボサだった。伸びしろのありそうなすらっとした長身で、自分よりだいぶ高い。 床に落ちていた弓を手に取ってみた。長い割に意外と軽い。弦をこする弓毛には、馬のしっぽが使われていると聞いたことがあるけど、本当だろうか。 「勝手に触るな!」 「わ!」 剥き出しの敵意に煽られ、伶はバランスを崩し尻餅をついた。 「あんた誰?」 「……伶、です。十和田(とわだ) (れい)」 起き上がったレオは秋の木漏れ日のような瞳を(しばた)かせた。 「もしかして君、新しいルームメイト? そういやジャンが言ってたっけ。新しい子入れるからって」 「多分ね。そのジャンにこの部屋の鍵をもらったので」 「留学生? にしてはフランス語が分かるんだね」 「パリに来て3年になるから。12歳の時から公立音楽院(ここ)に入って、同時に地元の中学校にも通ってた。だから会話は問題ない」 「え、じゃあ君も15歳? 同い歳だ」 「そうなの?」 「僕はレオだよ。レオ・シュバリエ」 楽譜と本が山積している薄暗いベッドルームに向けて、彼はあごをしゃくった。 「片付ければ寝るところぐらいはあるよ」 「はぁ……」 返事と同時になんだか肩が重くなる。 母と過ごした、17区のアパルトマンが心底恋しい。アンティークの家具付きアパート。天井まである木枠の窓辺からは、いつも明るい陽射しが差し込んでいた。防音ではなかったが、大家さんの好意でアップライトピアノも自由に弾かせてもらえた。 でも。体調を崩した母が日本に帰国した今、ここで生きていくしか方法はない。 2週間前、シャルル・ド・ゴール空港の保安検査場の前で、母はごめんねと頑張ってねを繰り返し、伶の手を握ろうとした。ポール先生とハグはできても、母と手を握るのは恥ずかしい。避けるように一歩後ずさった。 「大丈夫だから」と返事をするだけが精一杯だった。 気を取り直してスーツケースの取っ手を掴み、ベッドに向かおうとすると、彼は伶のシャツを引っ張っぱった。 「ねえ、何科に入るの?」 「......ピアノのディプロマだけど」 「えっ、ピアノ? そりゃいいや!」 「な、何?」 「明日、コンセルヴァトワールの定例演奏会で弾くんだよね。でもクロエがさ、まだオーヴェルニュのジット(別荘)にいて帰りたくないって言い出してさ。ああ、クロエっていうのはピアノ科の女子学生なんだけど」 「はあ」 「ヴァカンスの間、学生達はみんな愛しい我が家に帰っちゃうんだ。だから代わりの伴奏者も見つからなくてさ」 レオは座れるくらい膨大な楽譜の山から、くしゃくしゃのスコアを魔法みたいにつまみ出した。 「サンサーンス大先生『序奏とロンドカプリチオーソ』、知ってるでしょ?」 「聴いたことはあるけど、弾いたことない」 「げ。これだからソロばっかりやってるヤツは」 製本された楽譜ではなく、コピーされたスコアである。しかも端もめくれ、かなりぼろぼろだった。 「なんでコピー譜なの?」 「楽譜はクロエに貸しちゃったんだよ。返してもらわなきゃ」 「そう」 「せっかくだ。合わせようか」 「え、今から?」 「やっぱり伴奏がないとしっくりこないんだ」 レオはおもむろにヴァイオリンのネックを掴んで拾い上げ肩当に顎を乗せた。お手並み拝見と言いたげな、ねだるような目つきに闘争心が少しだけ掻き立てられる。 伶は受け取ったスコアに視線を落とし音符を追った。 ......この曲を初見で合奏しろと? スコアの総数は30ページ近い。この量は初見の範疇を超えてる。音楽院のオーディションの初見試奏ですら、4ページしかなかったのに。 難解なヴァイオリンの旋律に比べれば、ピアノ演奏ならなんとか形になりそうだ。音符を見るだけで、軽やかな音が頭に流れてくる。でもなんだか釈然としない。いやむしろ腹が立ってきた。 「ほらほらピアノの準備して」 「僕が嫌だって言ったらどうするの?」 「言わないよ。だってレイはピアニストだもん」 「はあ?」 「スコア見たら気になってきたでしょ、どんな曲になるか。ヴァイオリンとピアノのデュオも悪くないよ」 レオは小悪魔みたいに思わせぶりに笑った。 あの時からもう、自分は魔法にかけられていたのかもしれない。
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