Je ne peux pas vivre sans toi.

2/4
前へ
/30ページ
次へ
「本当に変わらないな、君は」 ジャンが目尻に皺を寄せて微笑んだ。久しぶりに会った甥っ子でも歓迎するかのようにハグをして、伶の肩を軽く叩いた。 8年ぶりのマルセル寮は見違えるほど綺麗に改築されていた。ジャンは明るい日差しの入る食堂を誇らしげに案内したり、水しか出なかったシャワーの思い出を語ったりした。 「部屋もすべて一人部屋に改築したよ。今時ルームメイトなんて流行らないらしい、ちょっと寂しい気もするがね」 ジャンに1ヶ月間もどこに泊まるのかと心配されたが、曖昧に返事をしておいた。彼になんて説明したらいいか――思いつかなかったから。 琴葉が師事していた大西教授の元で、アシスタントや演奏員をしながらピアノ伴奏の勉強をさせてもらうようになって、もうすぐ一年たつ。今回はポール先生の紹介で音楽院の短期伴奏マスタークラスを受講することになった。 「しかし、君が伴奏(アンサンブル)ピアニストになるとはね」 「まだまだ修行中ですよ」 「そうかい? 君は毎日のようにあの子に伴奏させられてたじゃないか。あぁ懐かしいね、あの頃が。今回も一緒に弾くのかい?」 「はい、コンセルヴァトワールで一度だけ」 「僕も久しぶりに顔を出そうかな」 「ええ、ぜひ」 器楽、声楽、バレエなど覚えるべき伴奏のレパートリーは永遠かと思うほど多種多様だった。初めはかなり戸惑ったが、どんな小さな舞台やコンクールの仕事も、分け隔てなく引き受けるうちに、初見でも移調でもこなせるようになってきたから不思議なものだ。 名指しで仕事の依頼が来ることが増え、あまりの多忙ぶりに聖子に少しは仕事を選びなさいと忠告された。何かと世話になっている彼女には未だに頭が上がらない。 コーヒーカップを傾け、すでに空だったことに気がついた。午前中に寮に着いて、すでにもう夕方になっている。食堂にも、レッスンを終えた学生の姿が増えてきた。待たされるのは慣れているが、パリまで来て自分は一体何をやっているのだろうかと滑稽な気分になってくる。 何日も前から落ち着かなかった。心ばかり(はや)るのに、どんな顔で会えばいいのか分からなかった。でも、早く会いたい。それが本心だった。 足早に玄関に向かうと、ジャンがカウンターに置かれた鉢花に水をやっているところだった。 「ラザール駅まで迎え行ってきます」 「ここで待ってなよ、どうせ待ちぼうけ食らうことに――」 ジャンの言葉が途切れる前に、玄関扉を開けていた。目に飛び込んできたのは、外の世界へと続く楕円形のアーチと見事に伸びたバラの蔓。 純白のバラが短い夏を謳歌するように咲き誇っている。アーチを潜るとバラの香りが霧雨のように降り注いできた。 「ジャンが世話してるアイスバーグだよ」 彼はそう言ってたっけ。伶は目を閉じてその香りを胸いっぱいに吸った。 「…………レイ」 振り返る間もなく後ろから抱きすくめられる。ヴァイオリンを背負う彼の体温とミュゲの香水にふわりと包まれた。 伶は懐かしい声のする方を見上げて、ゆっくりと顔を斜めに傾ける。黒鍵色の髪がするりと耳の下へ落ち、ゆるやかな栗色の髪と絡み合った。 何度もやさしく啄んだあと、ちゅ、と互いを惜しみながら離れ、同時に熱い吐息を漏らす。 「レオは人を()らせる天才だよ」 「一年も待ったんだ、半日くらい我慢してよ」 もどかしげに再び引き寄せられる。レコード会社を離れ、各地で遠征ばかりしてるという彼は日焼けして、どこか精悍な顔つきに変わっていたようだった。 レオの厚い肩越しに、黒い人影が目に入った。ジャンがジョウロを右手に持ったまま、足に根が生えたかのように呆然と立ち尽くしていたのだった。 伶はバッと肩から離れ、後ずさったがもう遅い。 「どうしたの?」 レオは不思議そうに振り返った。 「ジャン!」 「あぁ、レオ、元気そうでなによりだよ」 「......ジャン、見てた?」 「すべてね」 伶はあまりの恥ずかしさに耐えきれず、気温よりも暑くなった顔を手で覆った。レオはそんな彼の肩を抱き寄せた。 「僕の、ブランシュネージュだよ」 「レオやめて、本気でやめてよ」 「どうして、いいじゃない。ジャンに僕たちのことすべて話して、祝福してもらおう」 確かにジャンは昔からレオや自分ことをよく知り、誰よりも近くで見守ってくれていた存在だった。でもそれが今のふたりの関係を、理解してくれるとは限らない。むしろ反対されるんじゃないかと不安がよぎる。 ジャンはジョウロを地面に下ろし、じっと若いふたりの様子を見据えている。さっきまでの朗らかさは微塵もなくなっていた。 「……レオ、君は浮かれてるようだけど、レイがどんな覚悟でここまで来たのか分かっているのかい?」 レオと付き合っていくことの難しさを初めに教えてくれたのはジャンだった。彼は見抜いているのだろう、自分がなぜ伴奏者になったのかも、目まぐるしかった仕事を置きざりにして、遠く離れたパリにまで来たということも。 「本当に愛しているのなら、レイを今の10倍は大切にしなきゃ――じゃなきゃフラれるよ」 「ありがとう。でも僕は自分の足で望んで来たんだ。これからも自分の行先は自分で決める」 「それは頼もしいね」 レオに掴まれた肩先にぎゅっと力が込められた。 「……レイが僕のために犠牲にしたものはすべて、僕が代わりになる。僕の人生にはレイが必要なんだ」 「本当にそう思ってる?」伶が眉を寄せた。 「ほんとだよ!」 やっぱり彼と会話すると、つい反論したくなってくる。 「僕は、レイの家族にも友人にも仕事仲間にも、よき相談相手にもなるよ。もちろん恋人にもね」 「レオ……」 ずっと堪え続けていたものが溢れてくる。視界がぼやけるにつれ、今まで自分にはなかったと思っていたその正体に焦ってしまう。 レオはやさしく伶の目元を拭いながら微笑んだ。それは昔と変わらない少年みたいな笑顔だった。 「……あぁ、まったく、熱すぎてどうにかなりそうだよ。君たちも共倒れになる前に、早く中に入んなさい」 ジャンはジョウロを拾い上げ、諦めたようにさっさと寮の建物の方へ戻っていってしまった。 ふたりはその後も長い間、つかず離れず、見つめあったまま言い合いをし、ころころと笑っては再び抱き合い、いつの間にか扉の中に消えていった。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!

25人が本棚に入れています
本棚に追加