序奏とロンドカプリチオーソ

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寮に戻るともう4時を過ぎていた。部屋はむわっと嫌な熱気をため込んでいる。窓を開けると、教会のミサの終わりを告げる鐘の音が風に乗ってきた。一番近くのマドレーヌ寺院からだろうか。こんな荘厳な音を聴くたび自分がヨーロッパにいることを思い知らされる。 先に帰ってきていたレオは土足のままベッドで眠っているようだった。荷物を置いてから、それとなく様子をうかがったが、仰向けに寝っ転がったままぴくりとも動かない。 やっぱり自分には寮生活なんて向いてなかったんだ。他人と毎日顔を合わせて生活するなんて窮屈すぎる。ああ、もう考えるのも面倒くさい。シャワーでも浴びてこようと着替えを手にした。 水道管が古いせいか、ほとんど水みたいなシャワーだった。冷水を顔に浴びていると次第に頭が冷やされてくる。 暗譜しておけばよかった? せめてスコアをテープで一列に止めておけばよかった。そしたら風に飛ばされずにすんだのに。心構えの問題だよ、というレオの言葉が魚の小骨みたいに喉の奥に突き刺さっている。 タオルで髪を拭きながら部屋に戻ったが、相変わらずレオは同じ姿勢で寝ていた。あんなに部屋は暑かったのに、平気で寝ていられることが信じられない。 彼のボストンバッグは放り投げられたみたいにひしゃげていた。バッグを開けた形跡はない。ジャケットはまだカバンに詰め込まれているのだろう、汗と圧力でシワシワになるのが目に見えてる。 「ちょっと、レオ。ジャケットくらい片付けたら? 勝負服なんでしょ?」 反応のないレオに痺れを切らし、伶はベッドへと振り返った。 「レオ?」 彼は起こすのもはばかられるほど深く眠っていた。でもなんだか様子がおかしい。顔色は青白い割に頬はりんごみたいに赤い。額には汗の粒が光っているし、なんだか息苦しそうだった。手の平をレオの額に当てたみる。 「うわ……すごい熱」 もしかして朝から熱があったんだろうか。 「もう、なんなの一体――――」 伶はその足で、寮の管理人であるジャンの元に向かった。 レオのことを尋ねてみたけれど、持病などはないという。熱を出したという彼の体調を心配して、飲み物などを差し入れてくれた。持ちきれないほど飲料水や氷を両手に抱える伶を見て、ジャンは口の端にほんのわずかな笑みを浮かべた。 「やっぱり男の子なんだね」 「はい?」 「君が入寮する時ね、手違いで女の子が間違って入ってきたのかと驚いてね」 だからあんなに怖い顔してたのか。身長も160センチ以上に伸びたし、声変わりもだいぶ落ち着いてきた。さすがに最近は女の子に間違われることはなくなってきていたのだが。 「いくらレオのルームメートの希望者がいないからって、女の子を入れるわけにはいかないからね」 希望者がいないってどうしてですか、と聞こうとしてやめた。自分もレオと喧嘩して、部屋を変えてもらおうと頼むつもりだったんだ。 「まあ、今さら無理してルームメイトなんて入れなくてもいいんだけどさ。寮も何かと経費がかさんでね、できるだけ詰め込めと上がうるさいんだよ」 「あの、レオはパリ出身なんですよね。今はヴァカンス中のはずなのに、どうして彼だけ寮に住んでるんですか」 「あぁ、それは……」 ジャンは頬に指を当てながら少し思案する顔つきになる。考えているというより、伝えようかどうか迷ってるみたいだった。 「うーん、それは......彼には帰る家がないからね」 「え、家がない?」 「彼に家族はいない。養護施設と今日訪れたコンセルヴァトワールが彼の故郷だよ。君たちみたいに何もかも恵まれている留学生には、想像もつかない話だろうね」 レオは幼少の頃からコンセルヴァトワールに通いつめていたそうだ。まだ習い始めて2年しか経っていないにも関わらず「G線上のアリア」を演奏会で弾いたのだという。移弦もせずにG線だけでだよ、それがどんなにすごいことか分かるかい? と、ジャンは興奮ぎみに語った。 「ここはね、芸術の継承と維持のための教育の場だ。生まれも育ちもたいして重要じゃない。レオは情熱と才能だけでヴァイオリンを自分のものにした。彼は幼いときからアーティストだよ、地元の期待の星なんだ。だから特例も許されるし、信頼もされてる」 伶が真剣にうなずくのを見て、満足げに眉を下げた。 「それに彼はチャーミングだからね。度が過ぎてる時もあるけど。付き合うのはちょっとした覚悟が必要かもよ。でも、こうして私の所に来てくれた君なら、きっとうまくやれるさ」 そういってジャンは小さくウィンクした。
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